<   2018年 09月 ( 2 )   > この月の画像一覧

ひよこ音楽会 vol.2

先月やったミニライヴの様子をアップします。
やっぱり友人や家族たちに囲まれてリラックスして酒飲みながら演奏する、ってのは気持ちいいもんです。
後日、フルートを吹いてくれたカミサンが店に寄ったときに、店主のMomokoさんが私のギターを“音がキレイ”とやたら褒めてくれたそうで、一番嬉しい言葉を聴けて良かったのと、図らずもいい音になっているのならこれからも安心して音が出せる、と思いました。
みなさん、ありがとう。













[PR]
by kento_ogiwara | 2018-09-16 13:40 | 音楽のこと | Comments(0)

辺境について

先日同僚の女性と、今度横浜ジャズ・プロムナードに出るのだがバンドのメンバーが自分より10歳位若いけれどみんな大人で、私が最年長だけれど精神年齢は私が一番幼い、気を遣ってもらっている、という話をした。
みんなも私と同じく辺境に行くけれど行き方が私と違ってスマートだ、とか、私が前にボルネオでマハカム川をさかのぼって奥地に入ったものの森で迷って川を泳いで帰ってきた話をしたら、“何やってるんすか。”と言われたこととかを話したら同僚はえらいウケていた。
私が感じていたようなワクワクをたぶん彼らもまた違った形で感じている様子、とか話した。

しかし改めて時代が与えた影響も大きいよなと思う。
今は情報が溢れているが、私たちの頃は情報は移動しないと得られないものだったしインターネットもなかった。
私たちの頃は『地球の歩き方』を手に歩いたものだし、『歩き方』に載ってない辺境には自分で行ってみるしか知りようがなかった。しかし今ではどんな辺境もだいたい行かなくてもインターネットなどで情報が入るからわかってしまう。どこもかしこも人間の手が入っていて、未開拓、昔の言葉で言えば未開の地というものがほとんどない。

でもそのなかでも彼らはワクワクを感じている様子で、例えば“アフリカ行ってみたい”とか、“ミャンマーに行くなら早い方がいい。今ミャンマーで人々がジーンズを履き始めている。”とか言っていてハッとさせられる。彼らもたぶん私たちと同じように“native”なものに触れたい、というワクワクがあるんだろうなと思う。
なんでもかんでも“native”と呼ぶのもどうかと思うので自分なりの“native”の説明をするならば、それは私にとってボルネオの処女林、人の手の入っていない地球そのままの姿だったり、あるいは私は大学でドイツ語を専攻したのだが、学生時代訪れたドイツの田舎町で、ドイツ語を知らないと入れない、その土地の人々との会話の向こうにしか知り得ない世界だったり。
自分の世界と異なる、別の世界への憧れ、のような。
彼らはそこんところいくと語学も現地の言葉を完璧に習得して旅している様子で、そこは私と決定的に違うところかもな、と思う。私が野暮ったくて、彼らが洗練されている違いはそこかな、と思う。

予備校に通っていた頃はそこで出会った友人たちとよく、私たちが平たく呼んだところの“another world”について話していたし、いろいろな精神世界について考えを巡らせていた。
“another world”への憧れから、“another world”の経験を得たいためにいろいろな宗教について勉強したり、そういう音楽を好んで聴いたりしていた。
私にとっては中沢新一の『はじまりのレーニン』で読んだレーニンの思想もそういうものだった。あくまでもそれは中沢新一の書いたレーニンであって共産主義に共鳴したわけではないが。まあしかし赤狩りの行われた冷戦初期に糾弾されたアメリカ人に芸術家が多かったのは関係があるのかな、とは思う。
学生時代にはドイツのカッセルに2年間留学していたドイツ語学科の先輩が、“全く違う世界に興味があるんだ”と言っていて私も共鳴していた。
とにかくあの頃は古文書を読み比べてそれぞれの世界、宇宙の起源について思いを巡らせたりしたものだ。『ヨハネによる福音書』の冒頭の“はじめに言葉があった”について友人たちと話し合ったり。ギリシア神話のカオスについて思いを巡らせたり。老荘の時代の空気に触れたくてタオイズムの本を探してまわったり。ビッグバン以前の世界としてのホーキングの虚数空間について思いを馳せたり。
役に立つから、とかじゃなくて純粋な憧れ、興味、体験願望なのだ。
異世界を経験することで自分の世界を相対化するため、とかではないのだ。
憧れなのだ。

少年時代は
“どうして自分は現代の日本に生まれてきたんだろう?”
“もっと違った時代に違った場所で生まれたかったのに。”
とよく考えていた。

まあこういう時空を超えて辺境への憧れみたいなものを実現する、予備校時代に言ったところの“another world”を経験する、それを最初に現実世界で実践しようとしたのが私にとっての前述のボルネオへの旅だったんだろうと思う。その後も世界のあらゆるところを旅したのもそのためもあったかも知れない。いつも自分の住む世界とは別の世界に行きたくて旅していたんだと思う。
音楽を聴きあさったのもそういう面があるような気がする。もちろんその後そういうものと違ういろいろな音楽にも触れたが、例えばセロニアス・モンクの曲に異世界の、それでいて自分がかつていた世界の記憶を感じとれるような気がしたり、エリック・サティの幾何学模様に時空を越えて流れ続ける美しさを感じたり、ヘンデルの古典に人類共通の故郷を見るように感じたりしていた。
私の音楽も懐古的、ノスタルジア的なものが多いが、それもそういう回帰、記憶をたどる、まさにボルネオのマハカム川でそうしたように“さかのぼる”ことの実践としての音楽で、だから郷愁を感じさせる音楽が多いのだと思う。


今は幸か不幸かあの憧れの感情はなくなった。
それとともに曲を書くこともなくなった。
代わりに古文書の世界に触れたりすると、“ロマンだね”とか適当なセリフを吐いたりしている。
まあそれも大人になった、ということなのか、まあ悪いこととは別に思わない。
まあ人それぞれだろう。
私よりも年上のジョシュア・レッドマンのアルバムのタイトルには“Beyond”とあったし、ケニー・ギャレットも60歳近くになってもいまだに“Beyond The Wall”だ。彼らはいまだに壁の向こう、海の向こうに何があるのかに思いを膨らませているし、別に彼らのような第一線のアーティストでなくても少年の頃の憧れを持ち続けている人や別の世界に惹かれ続けている人はたくさんいるだろう。

ともかく、


先日はたまたま同僚との会話であの辺境への憧れについて久しぶりに思い出した。





[PR]
by kento_ogiwara | 2018-09-02 16:44 | どーでもいーこと | Comments(0)