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夏休み

2018年、夏休み


8月、お盆休み、この季節に来るといつもそうなように、今年も先の大戦に関する記事を読んだり、作品に触れることが多い。

8月6日にはこうの史代さんの原爆投下から10年後の広島を舞台にした『夕凪の街、桜の国』のテレビドラマを、また先日は明石家さんまさん主演の地上戦が行われる中での沖縄が舞台の『さとうきび畑の唄』を観た。

こうの史代さんの『この世界の片隅に』のテレビドラマ化もしばらく前からこの夏毎週放送しているし、欠かさず見ている。

こういった作品たち、あるいはテレビや新聞の記事で天皇家や政治家たち、記者たちの言葉、あるいは先の大戦を経験した語り部たちの言葉に触れては、いろいろなことに思いを巡らせている。

しかし私は直接的な戦争体験者でも語り部でもないし、語り部たちからその経験を世代に渡って受け継ぐ新しい語り部となるには、言葉や文体を選ぶ能力に欠けているように思われて、なかなか積極的な発信ができないでいる。

その点、こうの史代さんのような良質な語り部が、新しい世代から生まれているのは喜ばしいことだ。『この世界の片隅に』は、かつての私たちの世代の『はだしのゲン』のようにこれからも長きに渡って読み継がれていく作品だと思われるし、それが21世紀を迎えた後に生まれたことも意義深いことに思われる。

自分も何かできないか、もどかしい気持ちもあり、無力を感じることもあるが、かと言って何の声も出さない、というのも違う気がする。

私たち夫婦には子供がいないが、それでも友人の子供たちや、姪っ子たち子供の世代といると、彼らが過ごすこれからの世界が平和なものであって欲しい、と思うし、彼ら自身も平和を愛する人間になって欲しい、と思う。

その手助けをすることはできることのひとつなのかな、と思う。


少し話は変わるが、私が初めてモンゴルを訪れたのは1992年のことであったか。その前の年にインターナショナルな私の両親が、モンゴルからの留学生の女の子を自宅にホームステイさせたのが切っ掛けだった。私たちは彼女と交流を持ち、日本中いろいろなところを案内し、友人たちに紹介し、父親は日本語を教えた。その翌年、今度は父親と私が民主化間もないモンゴルの首都ウランバートルに彼女たち家族を訪問したのだった。当時は生活も厳しく、パンを求めて買いに行くにもパンも物も店にはない、という状況だった。それにも関わらず、モンゴルの家族は、羊1頭を買い付け、丸々茹でて、お頭付きで振舞ってくれた。父親はお頭付きの羊に圧倒されてあまり食べ進められなかったが、当時16歳で恐いもの知らずだった私は、むしろその野性味に食欲をそそられ、羊の丸茹でを食べに食べ、モンゴルの家族にもその食べっぷりで喜ばれた。後日譚だが、やはり厳しい生活の中での羊1頭丸々買いは、彼女たち家族の家計をとても圧迫したらしく、その後しばらく彼らは経済的に苦しい時期が続いたと記憶している。

私たちはその他にも彼女たち家族に郊外の草原に連れて行ってもらったり、森の中をハイキングしてみんなで羊肉を食べたり、ウランバートルの共産圏独特の単調な集合住宅の街並みを歩いたり、町の南にあるザイサンの丘にのぼってウランバートルを一望に見渡したり、ウランバートル・ホテルの前のレーニン像を見たり、ラマ教の寺院を詣でたり、博物館でラマ教の曼陀羅のエロティックさに驚いたり、テニスコートに行って上手なロシア人の男の子とテニスしたりロシア人の女性と英語で話をして一緒に写真を撮ったりした。

また南ゴビに小さなセスナ機に乗って行って別の星かのような砂漠、草原の姿に驚いたり、馬やラクダに乗せてもらったり、馬乳酒やヤギやラクダの乳を飲んだり、遊牧民のゲルを訪れたりした。

そんな中、町近郊の草原を歩いている時だったと思う。彼女の父親が、私の父親に、

「かつて、あなたたち日本軍がモンゴルに来た。」

と言った。

私たちはかろうじてノモンハン事件のことを聞きかじっていたから、そのことだとわかった。ホスト・シスターが聴きつけて、

「父があなたたちに良くないことを言ったかも知れないけれどすみません。」

と謝った。


アジアを旅していれば日本軍の侵略については嫌でも目に付く。

19歳の時には2か月ほどかけてインドネシアを一人で旅した。

ジャカルタのサトリア・マンダラ博物館では日本軍の侵攻や“Japanization”に関する展示があったし、フローレス島マウメレで仲良くなったインドネシア人女性とは過去の戦争のことについて話して、今では友達、でもお互い過去を忘れないように、と言い合ったりした。

フローレス島シッカ村ではエドムントゥスという老人に出会って当時の記憶を話してもらった。当時記していた日記にはこうある。


オランダ軍、日本軍の占領下をくぐり抜けてきたシッカの村長と話をした。村長エドムントゥスは日本語をよく覚えていて、南方軍の軍歌を歌ってくれた。椰子の木や南十字星といった歌詞が出てきた。50年前、旧日本軍の兵達もこの椰子の木を見たのだ。夜空を眺めて南十字星を探したのだった。50年後、ぼくは彼らと同じインドネシアの椰子の木々や夜空を前にしている。でも彼らの見るインドネシアとぼくのとでどんなに違いがあることだろう。不思議な気持ちになった。椰子の木と南十字星。

エドムントゥスは自分が日本語を学んだ経緯を「日本軍が来てわたくしは日本語を学んだ。ヤマモトさんがわたしに日本語をあげた。」と言った。ヤマモトさんは日本兵だった。当時日本海軍はエンデに、陸軍はマウメレにやってきて占領した。エドムントゥスは「ばかやろう。」「まえへー進め。」というフレーズも覚えていた。「もしもしかめよ、かめさんよ、」の歌も知っていた。「ベルリン、ローマ、トーキョーをつなぐ。」エドムントゥスは何度もそう言った。ベルリン、ローマ、トーキョーをつなぐ、ぼくがドイツ語を学んでいると言った時、エドムントゥスの表情がしばらく止まった。「ああ、ジェルマン・・・」とエドムントゥスは呟いた。「でも今はみんな友達。」エドムントゥスはそうも言った。

~中略~

エドムントゥスはせまりくる戦火の中、この小さなシッカ村で耐えに耐え、日本語とオランダ語を学んだ。そして彼の言語は語彙は少なかったが、それだけに彼の中に残された「普通学校」「わたくし」というかつての言葉は50年前の戦争を強烈に想起させるリアルさがあった。
エドムントゥスの写真、1995年8月、インドネシア、フローレス島シッカ村にて。

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その後も妻と訪れたソウルなど、私たちはアジアのあらゆる地で戦争の残した跡を見てきた。

妻が印象的だったところで話してくれたのは2人でインドネシア、ジャワ島を旅していた時のこと。私たちはしばらくジャカルタの喧騒を離れて郊外のチアテルという小さな町にいた。夏のある日、そのチアテルのルマ・マカン(安食堂)でスカルノやブン・ハッタといった英雄とともに日本軍が映し出されたインドネシア独立のドキュメンタリーを小さなテレビで見た。ルマ・マカン(安食堂)の親父さんが食い入るように見つめていた。食べ終わった後、私たちは彼に自分たちが日本人だと伝えた。彼はそれを聴いても私たちに変わらす親しく接してくれた。妻はそれでも親父さんのテレビを食い入るように見ていた真剣な姿が印象的だったそうだ。


最近は語られることが少なくなってきた先の大戦における日本の加害者としての姿、そこで犠牲になったアジアの人々のこと。夏が来ると戦争と平和について考えるけれど、そこでなかなかアジアの人々にまで思いが至らない。
今まで観た日本の戦争作品では、井筒和幸監督の『パッチギ! LOVE&PEACE』で描かれた南方戦線で、主人公や日本兵やアメリカ兵たちだけでなく、占領された太平洋の島々の褐色の肌をした原住民が登場したり、水木しげるさんの『ラバウル戦記』でラバウルの原住民が水木さんの友人として登場するのを見たほかは、私の見た限りではあまり現地のアジアの人々にスポットライトが当たった作品に触れることは少なかった。

今の日本において、アジアにおける日本軍の加害者としての面については年々語ることがはばかられてきているような気がする。犠牲になったアジアの人々のこと。そこにいたはずのアジアの人々。実際政治の世界では、8月15日の全国戦没者追悼式において現首相は1993年以降歴代首相が触れてきたアジア諸国への加害責任に触れず、それに対する「深い反省」や「哀悼の意」などを表すこともなかった。これは2013年の現政権発足後、6年連続のことだという。

これからの世界、自分たちより若い世代にどのような世界が来るといいと思うか。私たちは彼らに何を残せるのか。何を受け継いでいけたらいいか、何を伝えたらよいか。過去から学び、どんな世界を未来に残していったらいいのか。


この間、友人の子供と色とりどりのイルミネーションを見ていて、私が「全ての色が混じると何色になる?」と訊くと、小さな彼は「虹色!」と答えた。私はその答えが気に入って、ネルソン・マンデラが非暴力でアパルトヘイトを克服し大統領になったとき、南アフリカが肌の色が異なる人々が共存する「虹色の国」になることを掲げたことを話した。小さな彼には難しかったことと思うが、彼の父親も虹色はLGBTの人たちにとってのシンボル・カラーだと話したり、虹色についての連想を大人たちで勝手にして楽しんでいた。いつか今は小さな彼も多様性を愛し、自分と異なる人たちに対して寛容な人になってもらいたいし、彼らの住む日本もそんな虹色の国であって欲しい。


今度友人の10歳になる男の子と一緒にライヴでジョン・レノンの“Imagine”を演奏することになっている。彼がピアノで私がギター。彼は夏休みは音楽よりサーフィンに夢中だそうだが、彼のヒーローでもあるネイマールが出演しているユニセフの“Imagine”のミュージック・ビデオは母親とともに見ているそうだ。

それまで私は“Imagine”という曲に複雑な気持ちを持っていたが、先日たまたまテレビでベトナム戦争のドキュメンタリーを見ていた時にはたと気がついた。同じ民族が南北に分かれて殺し合う、ベトナム人がベトナム人を銃で処刑する、そんな泥沼化する悲惨なベトナム戦争の行われていた世界で書かれた曲が“Imagine”だったこと。個人の命の尊さ、人々の日常の生活のありがたさ、国家や戦争、宗教を超えたところでの家族や友人たちとの愛。そんなことを歌った曲が凄惨な戦争の最中に作られた。だからこの歌は平和への祈りなのだ、と思った。戦争に自分たちの全てを奪われることなく、家族や友人たちを愛し、日々の生活を慈しむ人々の姿が歌われた点で、この曲はこうの史代さんの『この世界の片隅に』に通じるところもあるのかな、と思うようになった。

20年来の友人である彼の母親は、このあらゆる差別が横行するこの今の世界で、息子と私が“Imagine”を演奏するのは素晴らしいことだ、と言っていた。当日はジョン・レノンの歌詞を配って観客たちみんなにも歌で参加してもらおうと思っている。

それと私は彼に音楽を誰かと共演したら、終わった後は必ず共演相手と握手することを教えたい。加えてピアノ好きな彼に、私が大好きな、一家に一枚置いておきたいビル・エバンスのソロ・ピアノ・アルバム、『ALONE』を渡したい。まだ10歳の彼には早いと思うが、いつか年が経ってからでもこんな美しい世界があることを知ってもらえればいいし、気に入らなければそれはそれでもいい。

そしてアメリカの生んだ最も美しいアーティストで、私が最も敬愛するミュージシャンであるジミ・ヘンドリクスから、取っ付きやすい曲たちを見繕って1枚のCDに編集したのでそれも渡したい。心の自由をいかにして持つのか、あるいは国家や政治、出自からの自由、心の自由の尊さを歌った彼の作品は、今後、彼の気が向けば自分で、色々な作品を当たって聴いてみて欲しい。何せジミ・ヘンドリクスの作品は素晴らしいものが無限にあってどれか一枚のアルバムに絞るのは不可能、私の編集したCDはその取っ掛かりでいい。もちろん気に入らなければそれはそれでよい。

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写真は73回目の終戦の日に作った天津飯と棒棒鶏。

夏休みは今日で終わり。









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by kento_ogiwara | 2018-08-16 17:52 | Comments(0)