横浜ジャズプロムナード!

楽しかった!!!













バンド名; ビーツパラダイス

Tenor Sax    牧田一隆
Piano     荻原健登 
Wood Bass   山田浩貴
Drums     荒井尚彦

2018年10月7日
横浜ランドマークプラザ
サカタのタネ ガーデンスクエアにて録音






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# by kento_ogiwara | 2018-10-11 00:18 | BLOG;音楽について | Comments(0)

ひよこ音楽会 vol.2

先月やったミニライヴの様子をアップします。
やっぱり友人や家族たちに囲まれてリラックスして酒飲みながら演奏する、ってのは気持ちいいもんです。
後日、フルートを吹いてくれたカミサンが店に寄ったときに、店主のMomokoさんが私のギターを“音がキレイ”とやたら褒めてくれたそうで、一番嬉しい言葉を聴けて良かったのと、図らずもいい音になっているのならこれからも安心して音が出せる、と思いました。
みなさん、ありがとう。










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# by kento_ogiwara | 2018-09-16 13:40 | BLOG;音楽について | Comments(0)

辺境について

先日同僚の女性と、今度横浜ジャズ・プロムナードに出るのだがバンドのメンバーが自分より10歳位若いけれどみんな大人で、私が最年長だけれど精神年齢は私が一番幼い、気を遣ってもらっている、という話をした。
みんなも私と同じく辺境に行くけれど行き方が私と違ってスマートだ、とか、私が前にボルネオでマハカム川をさかのぼって奥地に入ったものの森で迷って川を泳いで帰ってきた話をしたら、“何やってるんすか。”と言われたこととかを話したら同僚はえらいウケていた。
私が感じていたようなワクワクをたぶん彼らもまた違った形で感じている様子、とか話した。

しかし改めて時代が与えた影響も大きいよなと思う。
今は情報が溢れているが、私たちの頃は情報は移動しないと得られないものだったしインターネットもなかった。
私たちの頃は『地球の歩き方』を手に歩いたものだし、『歩き方』に載ってない辺境には自分で行ってみるしか知りようがなかった。しかし今ではどんな辺境もだいたい行かなくてもインターネットなどで情報が入るからわかってしまう。どこもかしこも人間の手が入っていて、未開拓、昔の言葉で言えば未開の地というものがほとんどない。

でもそのなかでも彼らはワクワクを感じている様子で、例えば“アフリカ行ってみたい”とか、“ミャンマーに行くなら早い方がいい。今ミャンマーで人々がジーンズを履き始めている。”とか言っていてハッとさせられる。彼らもたぶん私たちと同じように“native”なものに触れたい、というワクワクがあるんだろうなと思う。
なんでもかんでも“native”と呼ぶのもどうかと思うので自分なりの“native”の説明をするならば、それは私にとってボルネオの処女林、人の手の入っていない地球そのままの姿だったり、あるいは私は大学でドイツ語を専攻したのだが、学生時代訪れたドイツの田舎町で、ドイツ語を知らないと入れない、その土地の人々との会話の向こうにしか知り得ない世界だったり。
自分の世界と異なる、別の世界への憧れ、のような。
彼らはそこんところいくと語学も現地の言葉を完璧に習得して旅している様子で、そこは私と決定的に違うところかもな、と思う。私が野暮ったくて、彼らが洗練されている違いはそこかな、と思う。

予備校に通っていた頃はそこで出会った友人たちとよく、私たちが平たく呼んだところの“another world”について話していたし、いろいろな精神世界について考えを巡らせていた。
“another world”への憧れから、“another world”の経験を得たいためにいろいろな宗教について勉強したり、そういう音楽を好んで聴いたりしていた。
私にとっては中沢新一の『はじまりのレーニン』で読んだレーニンの思想もそういうものだった。あくまでもそれは中沢新一の書いたレーニンであって共産主義に共鳴したわけではないが。まあしかし赤狩りの行われた冷戦初期に糾弾されたアメリカ人に芸術家が多かったのは関係があるのかな、とは思う。
学生時代にはドイツのカッセルに2年間留学していたドイツ語学科の先輩が、“全く違う世界に興味があるんだ”と言っていて私も共鳴していた。
とにかくあの頃は古文書を読み比べてそれぞれの世界、宇宙の起源について思いを巡らせたりしたものだ。『ヨハネによる福音書』の冒頭の“はじめに言葉があった”について友人たちと話し合ったり。ギリシア神話のカオスについて思いを巡らせたり。老荘の時代の空気に触れたくてタオイズムの本を探してまわったり。ビッグバン以前の世界としてのホーキングの虚数空間について思いを馳せたり。
役に立つから、とかじゃなくて純粋な憧れ、興味、体験願望なのだ。
異世界を経験することで自分の世界を相対化するため、とかではないのだ。
憧れなのだ。

少年時代は
“どうして自分は現代の日本に生まれてきたんだろう?”
“もっと違った時代に違った場所で生まれたかったのに。”
とよく考えていた。

まあこういう時空を超えて辺境への憧れみたいなものを実現する、予備校時代に言ったところの“another world”を経験する、それを最初に現実世界で実践しようとしたのが私にとっての前述のボルネオへの旅だったんだろうと思う。その後も世界のあらゆるところを旅したのもそのためもあったかも知れない。いつも自分の住む世界とは別の世界に行きたくて旅していたんだと思う。
音楽を聴きあさったのもそういう面があるような気がする。もちろんその後そういうものと違ういろいろな音楽にも触れたが、例えばセロニアス・モンクの曲に異世界の、それでいて自分がかつていた世界の記憶を感じとれるような気がしたり、エリック・サティの幾何学模様に時空を越えて流れ続ける美しさを感じたり、ヘンデルの古典に人類共通の故郷を見るように感じたりしていた。
私の音楽も懐古的、ノスタルジア的なものが多いが、それもそういう回帰、記憶をたどる、まさにボルネオのマハカム川でそうしたように“さかのぼる”ことの実践としての音楽で、だから郷愁を感じさせる音楽が多いのだと思う。


今は幸か不幸かあの憧れの感情はなくなった。
それとともに曲を書くこともなくなった。
代わりに古文書の世界に触れたりすると、“ロマンだね”とか適当なセリフを吐いたりしている。
まあそれも大人になった、ということなのか、まあ悪いこととは別に思わない。
まあ人それぞれだろう。
私よりも年上のジョシュア・レッドマンのアルバムのタイトルには“Beyond”とあったし、ケニー・ギャレットも60歳近くになってもいまだに“Beyond The Wall”だ。彼らはいまだに壁の向こう、海の向こうに何があるのかに思いを膨らませているし、別に彼らのような第一線のアーティストでなくても少年の頃の憧れを持ち続けている人や別の世界に惹かれ続けている人はたくさんいるだろう。

ともかく、


先日はたまたま同僚との会話であの辺境への憧れについて久しぶりに思い出した。





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# by kento_ogiwara | 2018-09-02 16:44 | Comments(0)

夏休み

2018年、夏休み


8月、お盆休み、この季節に来るといつもそうなように、今年も先の大戦に関する記事を読んだり、作品に触れることが多い。

8月6日にはこうの史代さんの原爆投下から10年後の広島を舞台にした『夕凪の街、桜の国』のテレビドラマを、また先日は明石家さんまさん主演の地上戦が行われる中での沖縄が舞台の『さとうきび畑の唄』を観た。

こうの史代さんの『この世界の片隅に』のテレビドラマ化もしばらく前からこの夏毎週放送しているし、欠かさず見ている。

こういった作品たち、あるいはテレビや新聞の記事で天皇家や政治家たち、記者たちの言葉、あるいは先の大戦を経験した語り部たちの言葉に触れては、いろいろなことに思いを巡らせている。

しかし私は直接的な戦争体験者でも語り部でもないし、語り部たちからその経験を世代に渡って受け継ぐ新しい語り部となるには、言葉や文体を選ぶ能力に欠けているように思われて、なかなか積極的な発信ができないでいる。

その点、こうの史代さんのような良質な語り部が、新しい世代から生まれているのは喜ばしいことだ。『この世界の片隅に』は、かつての私たちの世代の『はだしのゲン』のようにこれからも長きに渡って読み継がれていく作品だと思われるし、それが21世紀を迎えた後に生まれたことも意義深いことに思われる。

自分も何かできないか、もどかしい気持ちもあり、無力を感じることもあるが、かと言って何の声も出さない、というのも違う気がする。

私たち夫婦には子供がいないが、それでも友人の子供たちや、姪っ子たち子供の世代といると、彼らが過ごすこれからの世界が平和なものであって欲しい、と思うし、彼ら自身も平和を愛する人間になって欲しい、と思う。

その手助けをすることはできることのひとつなのかな、と思う。


少し話は変わるが、私が初めてモンゴルを訪れたのは1992年のことであったか。その前の年にインターナショナルな私の両親が、モンゴルからの留学生の女の子を自宅にホームステイさせたのが切っ掛けだった。私たちは彼女と交流を持ち、日本中いろいろなところを案内し、友人たちに紹介し、父親は日本語を教えた。その翌年、今度は父親と私が民主化間もないモンゴルの首都ウランバートルに彼女たち家族を訪問したのだった。当時は生活も厳しく、パンを求めて買いに行くにもパンも物も店にはない、という状況だった。それにも関わらず、モンゴルの家族は、羊1頭を買い付け、丸々茹でて、お頭付きで振舞ってくれた。父親はお頭付きの羊に圧倒されてあまり食べ進められなかったが、当時16歳で恐いもの知らずだった私は、むしろその野性味に食欲をそそられ、羊の丸茹でを食べに食べ、モンゴルの家族にもその食べっぷりで喜ばれた。後日譚だが、やはり厳しい生活の中での羊1頭丸々買いは、彼女たち家族の家計をとても圧迫したらしく、その後しばらく彼らは経済的に苦しい時期が続いたと記憶している。

私たちはその他にも彼女たち家族に郊外の草原に連れて行ってもらったり、森の中をハイキングしてみんなで羊肉を食べたり、ウランバートルの共産圏独特の単調な集合住宅の街並みを歩いたり、町の南にあるザイサンの丘にのぼってウランバートルを一望に見渡したり、ウランバートル・ホテルの前のレーニン像を見たり、ラマ教の寺院を詣でたり、博物館でラマ教の曼陀羅のエロティックさに驚いたり、テニスコートに行って上手なロシア人の男の子とテニスしたりロシア人の女性と英語で話をして一緒に写真を撮ったりした。

また南ゴビに小さなセスナ機に乗って行って別の星かのような砂漠、草原の姿に驚いたり、馬やラクダに乗せてもらったり、馬乳酒やヤギやラクダの乳を飲んだり、遊牧民のゲルを訪れたりした。

そんな中、町近郊の草原を歩いている時だったと思う。彼女の父親が、私の父親に、

「かつて、あなたたち日本軍がモンゴルに来た。」

と言った。

私たちはかろうじてノモンハン事件のことを聞きかじっていたから、そのことだとわかった。ホスト・シスターが聴きつけて、

「父があなたたちに良くないことを言ったかも知れないけれどすみません。」

と謝った。


アジアを旅していれば日本軍の侵略については嫌でも目に付く。

19歳の時には2か月ほどかけてインドネシアを一人で旅した。

ジャカルタのサトリア・マンダラ博物館では日本軍の侵攻や“Japanization”に関する展示があったし、フローレス島マウメレで仲良くなったインドネシア人女性とは過去の戦争のことについて話して、今では友達、でもお互い過去を忘れないように、と言い合ったりした。

フローレス島シッカ村ではエドムントゥスという老人に出会って当時の記憶を話してもらった。当時記していた日記にはこうある。


オランダ軍、日本軍の占領下をくぐり抜けてきたシッカの村長と話をした。村長エドムントゥスは日本語をよく覚えていて、南方軍の軍歌を歌ってくれた。椰子の木や南十字星といった歌詞が出てきた。50年前、旧日本軍の兵達もこの椰子の木を見たのだ。夜空を眺めて南十字星を探したのだった。50年後、ぼくは彼らと同じインドネシアの椰子の木々や夜空を前にしている。でも彼らの見るインドネシアとぼくのとでどんなに違いがあることだろう。不思議な気持ちになった。椰子の木と南十字星。

エドムントゥスは自分が日本語を学んだ経緯を「日本軍が来てわたくしは日本語を学んだ。ヤマモトさんがわたしに日本語をあげた。」と言った。ヤマモトさんは日本兵だった。当時日本海軍はエンデに、陸軍はマウメレにやってきて占領した。エドムントゥスは「ばかやろう。」「まえへー進め。」というフレーズも覚えていた。「もしもしかめよ、かめさんよ、」の歌も知っていた。「ベルリン、ローマ、トーキョーをつなぐ。」エドムントゥスは何度もそう言った。ベルリン、ローマ、トーキョーをつなぐ、ぼくがドイツ語を学んでいると言った時、エドムントゥスの表情がしばらく止まった。「ああ、ジェルマン・・・」とエドムントゥスは呟いた。「でも今はみんな友達。」エドムントゥスはそうも言った。

~中略~

エドムントゥスはせまりくる戦火の中、この小さなシッカ村で耐えに耐え、日本語とオランダ語を学んだ。そして彼の言語は語彙は少なかったが、それだけに彼の中に残された「普通学校」「わたくし」というかつての言葉は50年前の戦争を強烈に想起させるリアルさがあった。
エドムントゥスの写真、1995年8月、インドネシア、フローレス島シッカ村にて。

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その後も妻と訪れたソウルなど、私たちはアジアのあらゆる地で戦争の残した跡を見てきた。

妻が印象的だったところで話してくれたのは2人でインドネシア、ジャワ島を旅していた時のこと。私たちはしばらくジャカルタの喧騒を離れて郊外のチアテルという小さな町にいた。夏のある日、そのチアテルのルマ・マカン(安食堂)でスカルノやブン・ハッタといった英雄とともに日本軍が映し出されたインドネシア独立のドキュメンタリーを小さなテレビで見た。ルマ・マカン(安食堂)の親父さんが食い入るように見つめていた。食べ終わった後、私たちは彼に自分たちが日本人だと伝えた。彼はそれを聴いても私たちに変わらす親しく接してくれた。妻はそれでも親父さんのテレビを食い入るように見ていた真剣な姿が印象的だったそうだ。


最近は語られることが少なくなってきた先の大戦における日本の加害者としての姿、そこで犠牲になったアジアの人々のこと。夏が来ると戦争と平和について考えるけれど、そこでなかなかアジアの人々にまで思いが至らない。
今まで観た日本の戦争作品では、井筒和幸監督の『パッチギ! LOVE&PEACE』で描かれた南方戦線で、主人公や日本兵やアメリカ兵たちだけでなく、占領された太平洋の島々の褐色の肌をした原住民が登場したり、水木しげるさんの『ラバウル戦記』でラバウルの原住民が水木さんの友人として登場するのを見たほかは、私の見た限りではあまり現地のアジアの人々にスポットライトが当たった作品に触れることは少なかった。

今の日本において、アジアにおける日本軍の加害者としての面については年々語ることがはばかられてきているような気がする。犠牲になったアジアの人々のこと。そこにいたはずのアジアの人々。実際政治の世界では、8月15日の全国戦没者追悼式において現首相は1993年以降歴代首相が触れてきたアジア諸国への加害責任に触れず、それに対する「深い反省」や「哀悼の意」などを表すこともなかった。これは2013年の現政権発足後、6年連続のことだという。

これからの世界、自分たちより若い世代にどのような世界が来るといいと思うか。私たちは彼らに何を残せるのか。何を受け継いでいけたらいいか、何を伝えたらよいか。過去から学び、どんな世界を未来に残していったらいいのか。


この間、友人の子供と色とりどりのイルミネーションを見ていて、私が「全ての色が混じると何色になる?」と訊くと、小さな彼は「虹色!」と答えた。私はその答えが気に入って、ネルソン・マンデラが非暴力でアパルトヘイトを克服し大統領になったとき、南アフリカが肌の色が異なる人々が共存する「虹色の国」になることを掲げたことを話した。小さな彼には難しかったことと思うが、彼の父親も虹色はLGBTの人たちにとってのシンボル・カラーだと話したり、虹色についての連想を大人たちで勝手にして楽しんでいた。いつか今は小さな彼も多様性を愛し、自分と異なる人たちに対して寛容な人になってもらいたいし、彼らの住む日本もそんな虹色の国であって欲しい。


今度友人の10歳になる男の子と一緒にライヴでジョン・レノンの“Imagine”を演奏することになっている。彼がピアノで私がギター。彼は夏休みは音楽よりサーフィンに夢中だそうだが、彼のヒーローでもあるネイマールが出演しているユニセフの“Imagine”のミュージック・ビデオは母親とともに見ているそうだ。

それまで私は“Imagine”という曲に複雑な気持ちを持っていたが、先日たまたまテレビでベトナム戦争のドキュメンタリーを見ていた時にはたと気がついた。同じ民族が南北に分かれて殺し合う、ベトナム人がベトナム人を銃で処刑する、そんな泥沼化する悲惨なベトナム戦争の行われていた世界で書かれた曲が“Imagine”だったこと。個人の命の尊さ、人々の日常の生活のありがたさ、国家や戦争、宗教を超えたところでの家族や友人たちとの愛。そんなことを歌った曲が凄惨な戦争の最中に作られた。だからこの歌は平和への祈りなのだ、と思った。戦争に自分たちの全てを奪われることなく、家族や友人たちを愛し、日々の生活を慈しむ人々の姿が歌われた点で、この曲はこうの史代さんの『この世界の片隅に』に通じるところもあるのかな、と思うようになった。

20年来の友人である彼の母親は、このあらゆる差別が横行するこの今の世界で、息子と私が“Imagine”を演奏するのは素晴らしいことだ、と言っていた。当日はジョン・レノンの歌詞を配って観客たちみんなにも歌で参加してもらおうと思っている。

それと私は彼に音楽を誰かと共演したら、終わった後は必ず共演相手と握手することを教えたい。加えてピアノ好きな彼に、私が大好きな、一家に一枚置いておきたいビル・エバンスのソロ・ピアノ・アルバム、『ALONE』を渡したい。まだ10歳の彼には早いと思うが、いつか年が経ってからでもこんな美しい世界があることを知ってもらえればいいし、気に入らなければそれはそれでもいい。

そしてアメリカの生んだ最も美しいアーティストで、私が最も敬愛するミュージシャンであるジミ・ヘンドリクスから、取っ付きやすい曲たちを見繕って1枚のCDに編集したのでそれも渡したい。心の自由をいかにして持つのか、あるいは国家や政治、出自からの自由、心の自由の尊さを歌った彼の作品は、今後、彼の気が向けば自分で、色々な作品を当たって聴いてみて欲しい。何せジミ・ヘンドリクスの作品は素晴らしいものが無限にあってどれか一枚のアルバムに絞るのは不可能、私の編集したCDはその取っ掛かりでいい。もちろん気に入らなければそれはそれでよい。

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写真は73回目の終戦の日に作った天津飯と棒棒鶏。

夏休みは今日で終わり。









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# by kento_ogiwara | 2018-08-16 17:52 | BLOG;その他 | Comments(0)