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ジャズピアニスト荻原健登のブログ

ノーマライゼイションが廃れた理由;仮説

今日、職場で同僚と話していて、去来するものがあったのでちと書き込み。

えと、まず最近、私の周りで、ノーマライゼイション、という言葉をあんまり聞かなくなったな、と思ってたんです。
ノーマライゼイション、という言葉に出会ったのは7~8年前、福祉を志してまず受けたヘルパー2級の教科書の中だったと思います。これが当時の、福祉の理念なのだと。
だいたいどういう意味かというと、我々いつも、メシを食ったり、トイレ済ませたり、飲みに行ったり、通勤したり、映画を見たり、旅行にいったり、ま、ふつーに生活してるわけですが、こういうことが、ふつーに、できない人たちがいるわけです。つまり身体障害者、知的障害者などの障害者や、加齢により色々難しさが出てきた高齢者など、ですな。んで、こういう、ふつーのことを、障害者も高齢者も含めた誰もが、ふつーにメシを食ったり、トイレを済ませたり、飲みに行ったり、通勤したり、映画を見たり、旅行に行ったり、と、ふつーにできるように個人も含めて社会全体で支援していこう、という考えがノーマライゼイションだったと思います。バリアフリーや補そう具などのハード面はもちろんのことすが、心理的にも色々な形で障害者だからできない、を障害者でもふつーにできるように、障害者がふつーに生活できるように、障害そのものを変えるのではなくて、障害者を囲む環境から変えていこう、及び支援していこうという考え、こういうものだったと思います。
実際、ここでおさえておきたいのは、障害者にとって、障害とは、体の中の機能的な障害があっても、実際どこでその障害を障害たらしめているかというと、例えば車椅子の人が階段を前にしてスロープもエレベーターも人の助けもなくのぼれない、という状況になって初めて、移動を障害されている、という状況が生まれるのであって、体内に機能的障害を抱えていても、スロープなりエレベーターなり人の助けなり、移動の手段が確保されていれば、その人は障害されないのだ。
最近日本もやっとこさ署名した(批准はまだなようだ)障害者権利条約ではこういった状況で、たとえば階段に対する、エレベーター、スロープなどの設置や、少なくとも駅員が移動の介助を行うなどの、「合理的配慮」が義務付けられることになっております。日本がこの条約になかなか批准したがらなかったのも、この「合理的配慮」を文言に織り込むことに消極的だったからだそうな。
なんか、「合理的配慮」の考えは、先のノーマライゼイションに似てますね、今書いてて思いました。しかしノーマライゼイションという言葉はとんと聞かない。2007年、社会福祉士取得のための勉強でも、ほとんど登場しなかった言葉だ。なんで聞かなくなったんだろう、と思ってたとき、今朝の同僚との会話で、ハタとこれか、と思ったのです。
えと、どういう会話だったっけ。
職場のいくつかの自閉症者のケースについて話していたのが発端だと思う。
自閉症者の中には、行動についてある種のこだわりを持つ人や、かなり厳密なレベルで行動が定式化してその中で動いている人もいる。
問題は(もっとも私たち支援者の存在などが問題を問題でなくしているのだが)、こういった行動が定式化した人が、社会や公共性、といったところと交わるところで、介助者なく、いわば自立して生活することはできないものか、といったものである。
それに対して私は反論したのだ。自閉症や、あらゆる発達障害、知的障害の人々にとっての支援のあり方、として構造化が言われる(2008年5月の記事“知的障害者との関わりについて;雑感”を参照のこと)。構造化、ある意味定式化されたからこそ得られる心の安定がある。私たちもそうではないか。という感じで。むろん同僚も同意。
しかし、話しているときに、ふと、コレだ、と思ったのだ。介助者の存在の是非。
もしかしたら確かに介助者なくして行動ができればいいのではないか。最近なりゆきでこの国では自立という言葉が言われるけれど、介助者から自立して過ごせればそれは、場合によってはそれは疑いもなくいいことなのではないか、と。そしてそこにこそ、ノーマライゼイション、という言葉が最近聞かれなくなった理由なのではないか、と思ったんだよね。
個人的には介助者が必要な以上、その人は死ぬまで介助者をつける権利があると思うし、社会はその環境を提供していく義務があると思う。ノーマライゼイション的、である。古臭いこと言ってるよ、と言われるかもしれないけれど、別に私は理論の斬新さや面白さを競っているわけではないし、むしろ現場と乖離したところでインテレクチュアルな論争をすることにはちょっと待った!と言いたい。
ちょっと逸れたが、つまり、介助者の存在の是非、ここから分かれる、と感じたんだよね。私のように介助者が一生どうやってもつくべきだと思ってる人はノーマライゼイションに是、介助者がいなくてすむのならいらなくなる方向で、という考えはノーマライゼイションとは違う要素を含み、よって現在そうであるように少しノーマライゼイションとは違った要素を含む考え、いい意味での自立支援などになっていくのだろう。実際私の事業所でも、定式化した行動の人が、たまに定式化された行動様式を時々なしで済ますことが出来た時、喜ぶ先輩は多い。
まるで私の極端さと保守性が浮き彫りになったようだが、弁明するのなら、私が比較的、構造化に強く同意し、生活における構造、枠、というものの重要さを人一倍かみ締めていて、そういった構造、枠が私たちの心の安定に強く影響を及ぼしている、と固く信じていること、及び、自立、という言葉をこの国で安易に使うことへの激しい懸念があることが背景だと思う。それと、定式化した行動を持って生活している私の利用者も、ここに来るまでは短くなかった。先人たちのころからの苦労と洞察の末にようやく構造化し、それにともなって心の安定を得たのだ。私はその心の安定を大切にしたいし、それをもたらした行動様式を守っていきたい。さらに、定式化された行動外の行動をすることや定式化した行動をなしで済ますような働きかけをして、よりよいQOLを導こうとする動きは、私にはまだハイレベル過ぎて、そんな大それたことをする勇気も、そのための経験も見識も必要な専門知識なども微塵も今の私にはない、という現実がある。

まあともかく。
ノーマライゼイションという言葉は廃れたが、障害者権利条約での「合理的配慮」に見られるようにこの考えが廃れた、ということではない。
障害者、及びその世界を供にする私たちはまだまだマイノリティ、多少極端で過激な位がちょうどいいかもしれない。
引き続きこのフィールドで頑張っていこうと思います。

追記;
途中から主人公が障害者に限定されてしまったような文章ですが、高齢者、在日外国人、ジェンダー、子育てをしている家庭、etc.、様々な生活を障害されている人全てがこの文章の当事者だと思って下さい。もちろん障害は食事・排泄・入浴、移動などの日常生活動作(ADL)に関して障害されていることから、経済的自立や職業選択の自由、や余暇の自由、最低限の生活、参政権などのあらゆるものが障害されていることも含みます。
by kento_ogiwara | 2010-07-14 00:59 | Comments(0)