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ジャズピアニスト荻原健登のブログ

自由への賛歌

自由への賛歌_f0153932_21292300.jpg

観て来ました。
3回泣いた。
アメリカにおける人種差別と、それと非暴力で闘うマーティン・ルーサー・キング牧師や、オスカー・ピーターソンや全ての黒人たち、あくまでも黒人ジャズマンたちの側に立った白人プロデューサー、ノーマン・グランツの胸の熱くなるような数々のエピソード、現在も続く差別、オバマ大統領が自身の就任式典でオスカー・ピーターソンの『自由への賛歌』を子どもたちに歌わせたこと、現代を生きるブランフォード・マルサリスら現役黒人ジャズマンたちが口にする今も続く差別の現状、
それらがかなり丁寧に描かれる中、背景に流れるオスカー・ピーターソンの『自由への賛歌』のブルージーな音楽、曲に託された思いを、時にピーターソン自身のインタヴューを交えながら聴いた。

いや、いきなりピーターソンと公民権運動の繋がりについて書いたが、それは凄く、恥ずかしながら意外な結び付きだったのだ。
だってオスカー・ピーターソンと言ったら、明るくて、楽しくて、超絶技巧で、ハッピーなイメージが先に立つ。だからなんでピーターソンが黒人差別と無縁と言えるのか、と問われれば困るのだが、まあ、私もピーターソンの芸風から、ある意味短絡的にそう考えていたのだと思う。
実際は、自身の務めるライヴ会場で、黒人だからという理由でトイレに入ることも拒まれるような酷い人種差別をピーターソンも日常的に被っていた。

オスカー・ピーターソンの私のイメージはもう一つ、それは優しさ。
繊細さと、美しさ。
確かに楽しいだけではなさそうだ。
今アタマの中で鳴っているのは隠れた名盤『Blues Etude』の最後に収録されている“I Know You, Oh So Well!”という盟友レイ・ブラウンのペンによる信じられないくらい優しい曲の、特にエンディング。あんなに美しいものを私は他に知らない、と言いたくなるくらい。
優しくなるためには痛みを知る必要があると思うが、ピーターソンの屈託のない笑顔、愛くるしい風貌は、この映画の中では時に深い悲しみを湛えていた。
人種差別について話す時、離れた家族を恋しがる時、孤独について語る時。
映画には出て来なかったが、やはり人種差別からピーターソンが書いた曲として、“Nigerian Market Place”があるが、この曲の深みも尋常ではない。そして異常に洗練されている。誰かがピーターソンのことをジャズの歴史の、全ての時代におけるトップランナーと言っていたが同感だ。それには自分を取り囲む世界に対する感受性と、同時代性をピーターソンが持ち合わせていたからなのではないか、と思う。
そして、例えば人種差別と彼が闘う時、音楽は力であり、だから彼の音楽や『自由への賛歌』は力強く、アメリカの中で、更にはアメリカに留まらず世界中の人々に訴える力を持ち得た。
私が泣いたのもだからだと思う。

因みに2回目泣いたのはピーターソンの死の朝について。
単純にこの愛すべきピアニストがいなくなってしまったことが悲しかった。
3回目はエンドロールが流れている時。
理由は不明。

閑話休題。

12月に受けたさる名手ピアニストのレッスンで、私がとある理由でジャズ・ピアノの本質を外していることを叱責された。
思うにその点オスカー・ピーターソンは真にジャズピアニストであり、そして書いてきたように本質的に反差別だ。
私が信頼を寄せるとあるドラマーもかつて話していて、ジャズが抑圧下で生まれたこと、そしてだからこそ私たちの心を打つ、と言っていた。
ジャズは本質的に反差別の音楽でなければならない。
成り立ちがそうなのだ。
そして日本には人種差別はない、アメリカの話で、関係はない、とはならない。
今も私たちを取り巻くありとあらゆる差別。
外国人差別、トランスジェンダー差別、障害者差別、宗教差別、女性差別、ジェンダートラック、少数民族差別、職業差別etc.
ありとあらゆる差別が日本には存在する。
だから公民権運動の街角で、黒人たちが掲げていたように、私も掲げる。
“We Shall Overcome.”
この世からあらゆる差別と、暴力がなくなることを、私は本当に祈ってやまない。




# by kento_ogiwara | 2024-03-06 22:55 | 音楽のこと | Comments(0)

楽しかった!!!!!

ベラーノ・ジャズ・フェス(2024年2月23日)より~YouTube動画_f0153932_21580266.jpg

左:荻原健登 ピアノ
右:多功 誠 ギター


YouTube動画は下記をお開き下さい!
   ↓






# by kento_ogiwara | 2024-02-25 22:02 | 音楽のこと | Comments(0)

路傍の石

Cherish The Day.

路傍の石_f0153932_22234593.jpg

この花が綺麗だね、とか、そういうふつうの会話をすること、
それも時々むずかしい
そんなことを話し合った
一方で、私は凄く恵まれていて、そういう話が出来る相手や、同僚、友人、家族などがいて、
そんな些細なことをなんでも話して、
笑い合ったり、
日々を紡ぐように
慈しみ深く
丁寧に
決して声を荒らげず
穏やかに
そのように私は日々を生きている
私がこの時のかけがえのなさを知っているから

路傍の石_f0153932_22241001.jpg

最近散歩が楽しい
いつも自分がいる街でも
ちょっと別の道を通ってみたり
奥の方へ入って行ってみたり
いつもと違うことをすると、新しい風景に出くわすことが多い
そういう日は途端に特別な日になり
記憶したくなり
そんな日はアパートに帰ってエレピに向かう
良い曲が書ける、そんな確信がある
後はそれを弾くだけ
先日もそんな、不思議な高揚感を持った曲を書き
タイトルについて考え
その日のことを反芻したけれど
結局はその旋律が全てを表しているような気がして
キース・ジャレットの即興のように
その日の日付だけをタイトルにした
それとその場所
私の街
東京

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シャッターを切る最初の切っ掛けとなった高い樹
というかその隙間から見える空
それをこうして記事にしようと思うのは、
私を取り囲んでくれている人たちへの感謝の気持ちを表したいからだと思う
私は元気にやっています
いつからか、私の周りで感謝を言う人が増えた
私も歳を重ね、それに伴って取り囲む人たちも高齢になったからだろうか
長く生きると、自分がいかに一人で生きてきたのではないことがわかるものだ
そこに感謝の気持ちが生まれるのかなと思う
そして厳しいようだが
それは人生を闘ってきた人だけが持ちうる感情で
闘っていない人には決してわからない

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『路傍の石』についてウィキペデイアで読む
小説は読まない
もう何年も本を読んでいない
『路傍の石』は少年のかなりハードな青春が描かれている模様、逆境、というか
昔の人は凄いな、とも思うが、一方でそういう吹きっさらしの現実は、私の記憶にもある
私はいつからか逆境に出くわした時、それと戦うのではなく、ただ離れてそれが逆境とも思わない程度に軽くしてしまうようになった
というか、それより馬の合う人や、同じ方向を見ている人と一緒にいた方が楽しいし、自分で魅力のあると思う人間たちの間に身を置いた方が遥かに豊かな人生だな、と思うようになった
そして、最近の私の幸運は、そういう人たちが私の周りにたくさんいるということ
今でも吹きっさらしの現実は私にもあるが、あまり固執しなくなった


路傍の石_f0153932_22251465.jpg

音楽以外では料理をするのが好きだ
食べ物の話をするのも好き
もちろん食べるのも好き
味、ていいな、と思う
コーヒー、
とか、
レーズン、
とか、
そういう言葉を思い浮かべるだけで少しテンション上がる
私はそこまで味のわかる人でもないし、料理の腕だって大したもんじゃない
でも友人たちや家族といろんな料理のアイデアを出し合ったり、味の感想を言い合ったりしていると楽しい
元気になる
なんでもなかった1日が、違った色合いを帯び始める
そうやって私は日々を慈しんでいる
私は料理をすると、必ずその写真を撮るのだが、たぶん酷い承認欲求の塊だな、とか、自己顕示欲とか、いろいろ言われてしまうのかな、とも思う
でも、料理の見映えを綺麗にするのは好きだし、
そうして撮った写真は私の日々の記録


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山本有三記念館にて 2024年2月20日写す



# by kento_ogiwara | 2024-02-21 23:39 | どーでもいーこと | Comments(0)

2月のお楽しみ

今日であっという間に1月も終わり。
2月は短いしもっとあっという間なのだと思うし、3月はもっともっとあっという間なのだと思う。
年始早々にお世話になっている病院が催す新春コンサート出演を終え、次が8月のサマーコンサートだと思うと長い、待ち遠しい、と言うと、(8月なんて)あっという間ですよ、と言われてぶっ飛んだが、
確かにあっという間なのかも知れない。

静かな1ヶ月だったけれど、いろんなことが決まったりもして、来月はちょいとばかり楽しくなりそう。
大きな話もあるのだが、とりあえず直近の2月のお楽しみについてご案内します。

バックナンバーにもちょいちょい書いていましたが、2月13日(火)に、東久留米のローカル局、FMひがしくるめの番組『新・多功の音楽ダンディ』(19:00~19:55)に生出演します。パーソナリティの才人ギタリスト多功誠さんとこの程共演する縁で呼んで頂きました。私にとって初めてのラジオ出演です。
10代の頃、ラジオを聴くのが好きな少年時代を過ごしたので、とても楽しみです。
アプリからスマホでも聴けるそうなので、よかったら聴いてみて下さい。

2月13日(火)19:00~19:55
『新・多功の音楽ダンディ』
FMひがしくるめ

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                      ↑多功さん

その多功さんとデュオでホームスタジオの千歳烏山アトリエベラーノのベラーノ・ジャズ・フェスに出演します。
いつも声をかけてくれるマスターの南川さん、ありがとう。

ベラーノ・ジャズ・フェス
2月23日(祝・天皇誕生日)
14時開演
※私たちの出番は15時~16時です!
Charge 2000円(ワンドリンク込み・玄米ご飯サービス)

荻原健登 (pf)
多功 誠 (g)

多功さんと話して、今回は(も?笑)私のオリジナル主体で臨みます。
この冬だけで5曲もの新しい曲を書いたり、創作意欲が半端ない今日この頃です。
多功さんの強力なサポートを得て、存分に楽しみ尽くしたいと思います。

2月のお楽しみ_f0153932_11475592.jpg

他の出演バンドもバラエティ豊かで、素晴らしいミュージシャンたちが集まるので、楽しめること確実です。
2月23日の天皇誕生日は是非、千歳烏山アトリエベラーノに起こし下さい。

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                       ↑荻原 近影(2024年1月4日、狛江add9thにて)





# by kento_ogiwara | 2024-01-31 23:07 | 音楽のこと | Comments(0)

Birthday Eve

誕生日前日、私と誕生日の近い姉、2番目の姪っ子3人合同で家族で祝って貰った。
母がシフォンケーキを焼いたのだが、分量が違ったかあまり思ったように生地が膨らまず、しかもトッピングのキウイフルーツがスーパーになくてブロッコリーで代用、姪っ子たちは衝撃を受けていた。
久しぶりの姪っ子たちや姉家族との時間。
若い感性をいっぱいに浴びたし、ふつうの家族なら私は叔父として姪っ子たちの相談に乗るのかも知れないがここでは逆で、私が姪っ子たちに話を聴いてもらって助言を貰ってスッキリしている。
姪っ子たちは頼もしい。
私が頼りないのかも知れないけど、まあいい。

あと2時間余りで誕生日。
今がチャンス。
誕生日を迎えてしまって来るべきこれからの未来について書くより、これまでの人生を振り返った方が遥かに贅沢というものだ。
良い人生だったな、と思う笑
まあ終わってしまえばなんとでも言えるし、どうせ言うなら良く言っておいた方が良い。
でもそういうことでなくても、今日は素直にそう思える。
仕合わせな47年だったな、と。

そして今まで生きてきて、今がいちばん仕合わせだな、と、なんとなく思う。

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私が音楽と出会ったのは12~3才の頃。
姉が当時流行っていたロックやポップスのCDを家で流し始めた。
狭い家だったから全部同じように聴こえていたし、私はそれまで感じたことのない快感を感じていた、こんなに気持ちのいいものがこの世にあったのか、と。
U2のボノがアイドルになり、私はなんでも、人がやっているのを観たり聴いたりするより、自分でやる方が好きだったから、歌を歌い、曲を自分で作り始めた。
13才のクリスマスに初めて曲を作り、ロックの歴史を掘り下げる中でジミ・ヘンドリクスに出会い衝撃を受け、14才で最初のギターを手にした。
アルバムのジャケットや曲目を観ながらCDアルバムを聴いては、新しい世界が出現するようにを感じたり、あるいはそこに自分の微かな記憶を見て取るような気がしたり、遠い世界、遥かに遡った古い世界、あるいは私がいるのとは全く違った世界を見てはその中に遊ぶように、私はCDを聴いていた。

私は歌を歌ったり、ギターを弾いたり、曲を書いたりするのに飽き足らず、それらをくれたCDというものを、今度は自分が作りたいと思った。
私はU2やジミヘンと同じことがしたかった。
その夢を叶えたのがアラサーの頃。
自主制作ではあったが、オリジナルのCDアルバムを量産した。
私はU2やジミヘンや、その他、無数にいる私のアイドルたちと同じことがしたかったから、歌詞も英語で書いた。
それまでの人生で、私は英語もけっこう勉強して、12~3才の頃には全く話せない、書けないだった英語が、アラサーの頃には多少は出来るようになっていた。
そうして大量のCDを作り、それは今も実家のロフトで埃をかぶった段ボールの中で眠っている。
ひとつ、重要なことは、12~3才の頃ひとりだった私は、その後たくさんの素晴らしい友人ミュージシャンたちに出会い、彼ら・彼女らの協力があって、素晴らしい作品を作ることが出来た、ということ。
彼ら・彼女らへの感謝の気持ちは変わらない。

一方で、私がCDによって人生を変えられ、CDに憧れ、そして自らCDを作るようになる頃には、時代はCDを聴かなくなっていた。
私は人ひとりの人生(半生)よりも技術革新の方が早く、人が夢を叶える頃には、その夢そのものがなくなっている、という状況に当時から気付いてはいた。
友人にそれを話すと、技術畑の友人は、それは現代誰もが感じているところ、と応えていた。
私は、近々、ご縁があって、とあるローカル局のラジオ番組に出演させて頂くことになっている。
私は少年時代、ラジオを通しても音楽を聴いていたし、まるで私に語りかけてくれるかのように話すDJたちに憧れ、一時期は自分がラジオのDJになって、世界中の人たちへ、いろんなお話を語りかけたい、と夢見ていた。
そしてそれがこの年にして叶うことになった。
私は自分がこの世界には珍しい、「遅咲き」だな、と思うし、ここに来てミュージシャンとして色々な芽が出て来ていることに、人生の妙を感じている。
私は自慢たっぷりに、姪っ子に、
“なあなあ、けんさん今度ラジオ出るんだよ!”
と言った。
“ふーん。”
姪っ子はスマホから目を離さずにニコリともせず言った。
その愛想の無さに義兄が笑った。
私は“え?凄くない?”みたいに言ったけれど、要するに、ラジオなんて姪っ子には縁も馴染みもなくて、これが例えばTik Tokで〇〇万回バズったんだよ、とかだったら反応ももっと違う、とのこと。
Tik Tokかあ・・、ようやらんな。
ラジオなんていちばんロマンチックな媒体にも思えるが・・。
そう考える私が古いのかな。

とにかくCDを作れば世の中はCDを欲さなくなり、ラジオに出ると言えば姪っ子からピクリとも反応してもらえない私の時代と常にミスフィットした古さを感じ入る誕生祝いでの一コマだった。
まあいいさ。
井筒和幸監督の『パッチギ!Love & Peace』の中で、藤井隆が急にかしこまって、
“私は古い人間ですが、古いからこそ新しいことが出来るとも思うのです。”
みたいなことを言って、クレイジーなことをやるシーンがあって好きなのだが。
新しいこと、やっていきます笑
嘘です、やること、変えません。
そして今まで通り、マイペースで行きます。

あと1時間で48才。
新しい年は、どんな風になるでしょうか?
頑張れ、48才の私。
47才の私から。

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2024年1月21日 左から私、藍子、姉、茉子




# by kento_ogiwara | 2024-01-21 23:21 | 音楽のこと | Comments(0)