<   2012年 02月 ( 3 )   > この月の画像一覧

JAZZMANの言うこと

おとといの日曜日、モトオカさんのレッスン。

私は疲れ果てていて、色々愚痴を言っていた。
最近のセッション・サーキットで嫌と言うほど自分より巧いピアニストたちを見てきて、自分の録音を聴いて病的なまでに疲弊して、もうすっからかん。ボーカリストの歌いたい曲の伴奏、好きでもない曲、知らない曲、そんなものたちをごまんと演奏して、なんでこんなことやってんだろう、とも思うさ。

そんな中、言われて嬉しい言葉が、“個性的”なのだ、と師匠に言うわけさ。
とそこに師匠の意外な言葉、“うーん、でも個性的って微妙な言葉じゃないですか?玉三郎も癖と個性は違うって言ってる。”と。そして癖もそこからさらに自分の歌にしていかなきゃならないのだと。

ちょっと待てよ、個性的、って部分を否定したら、私たちが音楽をやる意味ってあんのか?実際自分より巧い人はごまんといるわけで、東京のアマチュア・セッション・サーキットでもそうなわけで、そんなことは前提、だからこそ自分だけの個性を持ってないと、ジャズの中に、あるいはシーンの中に自分を見つけられないのではないのか?オスカー・ピーターソンが死んだ時、オゾネマコトが言ってたのは、“彼より巧い人は沢山いる、でも彼のピアノは人々を幸福にすることができた。”だぞ?ピーターソンでさえそう言われるんだ。アマチュア・セッション・サーキットももちろん、ピーターソンたちのようなレジェンドたちの間でだってうまさには果てがないんだ。そんな中で自分を見つけていくのためにうまさに頼ってるのは馬鹿げてるんだ、そう思わないかい?
実際、だから自分の存在を見つけてくれる“個性的”という言葉が嬉しいんだ。

そりゃ、ある程度作り込んだ曲をセッションでバッとやれば、プロにも“お見事!”と言われたり、yeahの言葉も頂戴すれば店にも雇われそうになったりもするさ。まあある程度の“うまさ”を担保できるくらいの力量はこの3年余りのレッスンで得てきた。ただそこでも自分の居場所をジャズの中に、あるいはシーンの中に見つけるのは大変なことなんだ。自分がそこにいるのかいないのかすら確かでない、そんな大変な世界なんだ。

モトオカ師匠の言ってることはごくごく当たり前のことさ。
つまりこうだ。
“個性も前提として知識とか、タッチとか、移調のうまさとか、リズム感や技術など、ある程度土台に巧さがないと個性も生まれてこない。ある程度の力量があって、その上で帯びてくるのが個性。ある程度弾けるようにならないと個性や自分の色が出てくるまでにはならない。”
ってことだ。
ジャズを始めた学生の頃、数年経ってある程度弾けるようになった時、とある現在も活躍しているミュージシャンであるフルーティストに、当時、
“ケントくんのピアノには色がある。緋色って感じ。でもまだ色が出てこない人もいる。”
と言われた。そりゃそうだ。まだジャズ、ってゆーか音楽になってるかなってないか、の瀬戸際のビギナーだった学生時代だ。中には何を弾いても音楽になってくれない人もいただろうし、自分だってようやくジャズ、てゆーかなにかしら音楽っぽいものをピアノで弾くことを覚え出したころだ。
でもそれが、数年後、さらにプロのレッスンを通してさらに高いレベルで同じことが要求されてるんだ。

まあ言ってしまえば、モトオカさんの見解では、私の今のピアノなど、個性を語るにはちゃんちゃらおかしいほど、前提としてのジャズの力量がない、ってことだ。個性を出すために前提として必要となってくる様々なことをまだまだこれから獲得していかなければならない、ってことだ。個性云々はその後のこと。

つらいよ。ショージキ。

自分のウタでもない音楽をなんで獲得していかなきゃいけないんだ。他人の曲を、他人の選曲を、そういったことができるようになるために、どうして苦労して大変な練習をしていかなくちゃいけないんだ?膨大な時間と燃料を割いて。

そんな気持ちがジャズマンでも少しわかるのかな?
生粋のロックエイジ上がりの元ギター小僧の私の考えてることが、生粋のジャズマンであるモトオカ師匠にもわかったのかな?ジャズマンはこう言ったんだ。
“練習が楽しくなればいい、やりたくない練習は十分の一位でいいから好きな練習をやってもいい。”
さらに普段はあまり饒舌でないジャズマンがこうも言ったんだ。
高らかに。
“曲を受け持つ、そしてそれを自分なりの言葉にして返してやる、それが音楽になる、音楽になってくれる、それがJAZZ、JAZZの素晴らしいところ。”
“クラシックはそこが難しい、巧くないといけないから。”

レッスン中にジャズマンにJAZZの素晴らしさについて話させてしまいましたよ、何やってんだ、オレ?
でもジャズマンはそういう風にJAZZを感じてるんだなあ。。。

まあさ、とことん卑屈になって言わせてもらえば、モトオカさんには、まさに曲を受け持つ、そしてそれを自分なりの言葉にして返してやる、ことができるんだよな。そしてオレはそれができない、・・・は言い過ぎにしても極端に下手なんだ。もう卑屈になって、そんなことは器用で巧くて、そういう職人肌の人がやればいいじゃないか?巧い人ならごまんといる。そういう人たちが勝手にやってればいい。
そんなことを言いながら、私はバド・パウエルの“dusk in Sandi”を弾いて、言ってやった。
“だってソロ・ピアノのレッスンですよ?こんなことができるのもソロ・ピアノだから。自由になっていいはずじゃないですか?”

まあ、そういうオレはシーンから遠ざかっていくんだけどね。
それは一人になることを意味する。
一人になったら、あるいはもっと自分の存在を確かめるのが難しくなるのかな?

うまくなってもこの気持ちは一生変わらないんだろうな、恐らく。ピーターソンでもそうだったように、うまさに果てはなく、チックがゴンサロに一瞬で抜かれる。うまくなっても、自分が出していくものが、あるいは受け持って返していくものが、音楽になるのか、あるいはその夜のセッションで音楽になるのか、音楽として成立するのか。実を言うとモトオカさん自身もその不安を今でも抱えている。毎日。毎日が不安なのだ、とモトオカさんは言う。

コレがJAZZなのか?
ショージキしんどい。
みんなはどう思ってるのか、みんなの意見が聞いてみたい。

とはいえ音楽が好きなのは変わらない。
ちょっとYOUTUBEを貼ってみたい。
私がローティーンの頃初めて好きになった“音楽”。イギリスのシェフィールドの友人たちが組んで、その後何
百枚ものCDを売りまくったDEF LEPPARD。私の音楽との出会い。
Photograph
という曲です。
これは私が人生で最初に好きになった曲である彼らの“Armagedon it”よりも数年前の曲。その後死んでしまったギターのスティーヴ・クラークも生きているし、ドラムスのリック・アレンも事故で片腕を失う前で、その後も彼らを襲った様々な不幸で最近の彼らはとても大人じみた音楽をやっているけど、これは全てが起こる前。みんな若くて、溌剌として、まさに青春の音楽。人生でそうそう起こるわけじゃない、“きらめき”がここにはある。残念ながらこのブログに埋め込みはできないみたいだけど、是非このリンクを開いて観てみて下さい。
一体誰がこの音楽を、この彼らを否定できようか?

私もこういう青春のきらめきのような音楽をやるには少しだけ歳をとってしまった。
このビデオを見るたびにくすぐったいような気持ちよさを感じるんだけど、これ、見てのとおり、ジャズじゃないんだな。
この素晴らしいビデオを見て、強いてジャズの良さを私が小さな声で言うのなら、演奏するたびに毎回好きなように変えていい、飽きた曲はやらないでいい(スターは飽きてても客の求めに応じて毎日のように同じ曲をやらなければならない。コレってけっこう苦痛だと思う。)。

もう、迷い人の妄言にはキリがないね。
私も始まりがDef Leppardだったり、U2だったり、ジミ・ヘンドリクスだったりするし、その他好きだった全ての音楽に影響を受けて、自分で曲を書いたり、それを演奏したり、それを録音したりするけど、そうしてる時のエキサイトメントと、ジャズをやってる時のエキサイトメントには雲泥ほどの開きがあるんだよね。
モトオカさんは、“その間が埋まっていけばいい。”というし、まずもって今でもそうやってオリジナルをやってる時に私の中に生まれてくるきらめき、そしてそれに身を委ねている時の気持ち良さがあることを言うと、
“なんかそういうのがあるからいい。”
のだ、とモトオカさんは言う。

もうJAZZとかORIGINALとかROCKとかPIANOとかGUITARとか、何がなんだかわからないんだ。
ただ最近疲れちまってね。
自分の録音を聴くのに疲れたっぽいから、それには注意するようにモトオカさんも言ってた。モトオカさんも自分の録音聴くのもの凄く疲れるみたいで。時とコンディションを考えて自分の録音は聴いた方がいいらしい。

なんか色々書いちゃったけど、オレ、大丈夫だよね?
みんなが見たら、なんか凄く狭いところで苦しんでるな、とか思うのかな?
みんなの意見が聴いてみたいよ。
とにかくこれが最近の私。

最後にもういっかい、私が生まれて一番最初に好きになった音楽、Def Leppardの“Armagedon it”を貼っておきます。ここから全てが始まったんです。映像も今見ると懐かしい。観客の女たちとか、まさに80年代後半のあの空気だよね。私は中学生だったかな。ここが私のいたところ。



この時にはリック・アレンも事故の後だけど片腕で元気にドラムス叩いてる。片腕なくなってもクビにしなかったバンドって好きだな、とか当時幼心に思ったな。
[PR]
by kento_ogiwara | 2012-02-28 21:21 | BLOG;音楽について | Comments(0)

holiday

今日はたまった疲れを取るべく、有給休暇をとってしっかり体を休めた。
床屋に行って髪を切ったり、晩飯にパスタを茹でたり、昼は笑っていいともを見たり、そういうごくありふれた休日だ。

床屋で週間誌を読みながら、中村うさぎさんのコラムを読んでいて、少し印象に残った言葉があってメモをして持って帰った。うさぎさん曰く、

人間は一生、居場所を求めて放浪する生き物なのだ。
若者よ、もっとさすらえ。

とのこと。居場所とは自分のことを100%受け容れてくれるところとのこと。
もちろんそんな場所はないさ。そんなことうさぎさんももちろんわかってる。それでも居場所を求めてさすらい続けるのが人間なのかな。若者にもメッセージしてるけど、うさぎさん自身、“さすらいの女王”だもんね。

ともかく後は昼寝してピアノの練習して、調子がよかったから録音もして自分のジャズ・ピアノを聴いてみた。そんでまた絶望の底に叩き落とされて、自分の存在を確かめたくてさらにエレピを弾いていたら曲ができた。通勤の帰りの家路で、分倍河原駅で撮ってた夕暮れの写真を背景にYouTubeにしてみたのでよかったら見てみて下さい。
うさぎさんのこともあって、居場所、すなわち“home”というタイトルも思いついたが、この国では“home”とか言うと、家族のいるところ、とか、おうち、とかそういう意味に誤解されてしまいそうだし、それはうさぎさんの言う“居場所”とは必ずしも、というか全く一致するものではないので、無難に今日有給だったから“holiday”というタイトルにしました。聴いてみて~。




P.S.最後に映ってる写真の遠くに見える三角の山は富士山なんですよ~。
[PR]
by kento_ogiwara | 2012-02-20 23:00 | BLOG;音楽について | Comments(0)

毎年のようにある新年の挙動不審

昨日、というか今日の深夜から今朝まで阿佐ヶ谷マンハッタンのミッドナイト・セッション。
セッション自体は低調で私もうまくいかなく、弾いていても楽しくなく、何かしっくり来ないまま終わった。師匠のモトオカさんは終わってから眠くなっちゃった、と言ってヘッドギアつけてチャリンコで帰り、
私はどうせセッションは終わったし、せっかくの土曜日の夜だし(実際は日曜の朝だが)、ま、飲みますか、ってことでマスターがいつも用意してくれるおつまみで(昨日は鴨肉出してくれた!ありがとう、マスター!)、ビール瓶を3本ほど。
ドラムのナカヤさんが酔っ払ってきて楽しくなってきてて、マスターの見せるDVDやCDをバックにシェイカーを振りまくっている。
“よ~し、次は4拍目だけ16分音譜!”といって実際にそう振るとそれは見事な4拍目だけ16分音譜、私が、
“おー、ホントに16分なってる。”
と言うと、
“あたりめえだ、オレを誰だと思ってるんだ!!!”
とノリノリ。私が調子に乗って、
“じゃあこの4拍子から3拍子に行ってください!”
と頼むとそれも見事に。
なんとなく私も興に乗ってきてシェイカーを持ち、みんなも加わってパーカッション大会。
私が4拍子のところで2拍3連を振ったりすると、ナカヤさんも乗っけてきて、ヨシ、このまま3拍子だぁ~!と4拍子の音楽をバックに3拍子合戦。そして同じところでリリースして(元に戻る)、
“YEAH!”
と声を揃える。
そんな感じで昨日は(今朝は)、セッションより、セッションが終わってからの酒飲みながらのパーカッション大会が楽しかった。
いや良かった、楽しめて。
コレだよ、って感じ。
サイコーだね。
最近ピアノやジャム・セッションが全く楽しくなくなってて、昨日にしたってセッションは全く楽しくなかったんだ。それでありがちな性格な私は考えるんだ。やっぱりオレはこの人たちのようにはなれないな、とか、ロックエイジの申し子で元ギター小僧であるオレにはここのナチュラル・ボーン・ジャズマンみたいには根本からなれないんだよ、とか、オレは本当はジャズが好きじゃないんじゃないか(じゃあうちにあるあの500枚くらいのジャズCDのコレクションは何?)、とか、ピアノ辞めようかな、とか。
でセッションは終わってどうでもよくなって酒飲んでパーカッションを振って、
“YEAH!”
だ。この“YEAH!”があるから人は人がいるところで演奏したり、人と合奏したりするんだろうな。だって実際楽しかったもんな、オレも。


新年明けてから、私は、“今年は部屋でメトロノーム相手に一人で弾いてばかりいないで、どんどん人前で弾いていこう。”と思った。それだけなら良かったのだか、悪いことにそこには下心があった。
それは、プロになる、というかピアノ弾いて金をもらいたい、と思ったことだ。
というのも去年最後のレッスンでモトオカ師匠に、“来年にはソロ・ピアニストとしてプロ・デビューできますね。”と言われたことを変に意識してしまったこと。
さらにタイミングが悪いことに仕事(福祉の方)で、民主党になってすぐ位に福祉職の待遇改善改善として施行された手当によりここ数年給料にプラス1万円位上乗せされてたのだが、これが今年の5月あたり分の給料をもって撤廃、ってなことを上司に言われた。オイオイ、4月から正式に5年目、福祉職のわりにはわりと長いこと頑張ってきたな、と思ってきたらそこにあるのは給料減額ってきたもんだ。
オレは金が欲しくなった。
そこに微妙に絡み合って、ピアノ弾いて金が貰えたら、と思って、過剰ともいえるほどのセッション・サーキットだったこの一ヶ月だったわけだ。

疲れたな。
まあ、いろんなことを言われたり、いろんな失敗をしたり、いろんな褒められ方をしたりしたけど、、、まあ色々書く前にこの間でズバリわかった最近のジャムセッション小屋の現状についてさらっと書いておくと、、、

今、セッション小屋はさながらカラオケ小屋だ。いきなりボーカルの方々には失礼な書き方をしてしまいましたが、とにかくボーカルの方が多い。楽器の人が異様に少ない。数年前では考えられないような少なさだ。ホーンの人が1人でも入れば御の字という位。ピアノも少ない。ピアニストがたくさんいてなかなか順番が回ってこなくてイライラした昔が懐かしい。
だいたいどこのジャムセッション小屋もまずホストバンドと言って、要するにプロの巧い人たちが各楽器1人いて、それ以外の楽器の人も入れ代わり立ち代わりでその場で曲を決めてセッションしていくのですが、最近はその巧いプロのホスト・ピアニストの伴奏で歌を歌いたい、というボーカルの方々が大挙して詰め掛けている、という感じです。ボーカルの方々も気持ち良く歌いたいので、そのためにもホストのピアニストだと安心で気持ちいい、またその逆でホストではないアマチュアのピアニストのバックでは歌いたくない、というふうになっております。小屋の進行やる人もそこらへんは考えて、ボーカルの時はできるだけホストのピアニストをあてがうようにしていることが多いです。
あんまりインスト(楽器のみ)のセッションは低調ですね。あんまりやってない。

少し前にそんな現状を感じてFBの方に書いたのが、下記、

この1週間で4回もジャムセッションに行った。
湯島カスター、国立ハーバーライト、高田馬場ゲートワン、もう一​回湯島カスター。時代は変わるのか、今セッション小屋はさながら​カラオケ小屋みたくなってて、客がボーカルばっかりで、ゲートワ​ンなんて11人ボーカルが来てびびった。当然歌の伴奏をさせられ​ることが多かったが、これが非常に難しい。モトオカ師匠と昨日レ​ッスンでそのこと話すと、モトオカさんもやや辟易としているよう​で、楽器の人に対するそれなりの配慮もなくただ上手いホストバン​ド・ホストピアニストをバックに歌いたいだけならカラオケ行けよ​、て話だよな、とまで言っていた。それなら“ornithology”(チャーリー・パーカーによる速いパッセージの曲。)でも歌ってみろ、とも言っていたな。
んでそれでもそういうセッション小屋に行く価値はあるか、と訊い​たところ、ない、と。そりゃ無茶苦茶上手くなりたいとか、どうし​ても歌バンが好きでやりたいんだ!とかなら行けばいいけど、と言​っていた。まあ、安心しました。ピアニストはそういう何でも歌の​人の要望に応えられる職人でなければならないのか、少し迷っても​やもやしていたので。歌の人の中には、たまに譜面も用意せず伴奏​頼んできたり、間違いだらけの譜面を渡してきたり、無茶な人が多​い中、対応していかなければいけないから本当難しいんだよな。ま​あやらなくていい、と言われて安心、腑にも落ちました。マイペー​スが一番。

そんなこんなでそれでも一昨日の金曜も湯島カスターに行ったし、昨晩は最後の砦、マンハッタンだったわけだ。

この間、いろんな人にいろんなことを言われた。

カスターのママ;歌の伴奏できれば仕事ができるわよ。
フクダシゲオさん(pf);歌伴慣れてきたじゃ~ん、経験値だよ、経験値。
カスターのボーカルの客イワシタさん;D♭なんだから黒鍵弾いてりゃいいのよ。
                       ;楽器の人はボーカルを立てなきゃいけないの。ボーカルが指揮者。
                       ;イントロ弾いたら最後にわかるアレを弾いてよ。
                       ;ボーカルが仕事とってくるのよ。だから歌伴ができればピアノは仕事とれやす                   い。だから今みんなピアニストは歌の伴奏の練習してる。プロになりいい人は。
スズキナオカツさん(ds);オギワラくん、一応ここボーカルのジャムセッションだから。
ヤマザキさん(ba);セッションは発表会の場じゃない。そんなんだとっこっちも伴奏みたくなっちゃう。
         ;最近の20代、30代は元気ないねえ。ハチャメチャなヤツがいない、ってゆうか。
金ちゃん(pf);(ピアノ)好きなんでしょう~。続けて。
        ;考えない。考えて弾いたらダメ。
        ;もっと人とね~やるとね~、いいよ。
あっきちゃん(pf)とその連れ;(私が)プロにはなれる。プロになるかはあとは覚悟があるかだけのこと。

私も、無事伴奏を終えても“ありがとうございます。”の一言も握手もないような高慢なボーカルに接して怒ってばかりもいられない。ついつい自ら練習を重ねてアレンジして作り込んである程度のレベルの高さを保証したレパートリーを演奏したところで、共演者を軽視していたらそれこそマンハッタンのホスト・ベーシストのヤマザキさんの言うとおり、共演者たちはただの伴奏者になってしまうし、そこには対話もコミュニーケーションもない。そんなものセッションとは言えないし、生身の人間とぶつかり合うセッションという舞台を台無しにしている。
ついつい日頃の練習の成果を出したい、と思ってしまうけど、発表会になってはいけない。カスターのホスト・ピアニストで素晴らしいピアニストである金ちゃんも、私が、
“全然練習どおりにいかない。練習でできたことができない。”
というと、
“人とやるからねえ。まあ練習どおりにいかない、ってことがわかっただけでも今日の成果じゃない。私もそうなんだけど。”
と言っていた。
“楽しく弾きたいなあ~”
と言えば、
“なかなか楽しく弾けないよねえ。私もそうなんだけど。”
と金ちゃん。
因みに金ちゃん、と馴れ馴れしく書いていますが、おそらく60代はもちろん70歳にもいってるかもしれない大ベテランです。もうバッキバキです。
今朝はプロのジャズ・ピアニストのあっきちゃんと演奏する上での自由とはなんなのか、楽しく弾くこととはどういうことなのか、など話したけど、そんなこんなで結局、落としどころがない、という感じで結論に至らなかったな。ヤマザキさんの“発表会じゃない。”という痛烈なお言葉を受けて、“でもビル・エヴァンスはレコーディングやライヴの前には入念にどのように弾くか作り込んでいたんだよね。”とか、一方で“でも(マイルス・デイヴィスのアルバムでビル・エヴァンスがピアノの)“kind of blue”は初見でワン・テイクなんだよね。それでアレだからずるいよね。”、とか話した。またピアノという楽器が、自分一人で完結することもできてしまうことの危険性、及びリスキーながらその魅力についてなども。まあ普段から自己完結しちゃってるからヤマザキさんに言われたみたいに“発表会の場所じゃない。俺たちは伴奏者じゃない。”といわれてしまうんだけどね。あっきちゃんもいろいろ思うところがあったようだな。

なんとなく東京のジャズ小屋と私をめぐる空気が伝わったでしょうか。
歌、プロ、金、そこから来るピアノを弾いている時のなんかしっくりこなさ、楽しくなさ。
因みに録音にも慣れようと思ってどのセッションにもICレコーダーもって録音したけど、チェック程度にしか聞いてないし、とにかく凄くつまらない。て当たり前だけど。このICレコーダーのせいでつまらないのかな。それもあるかもな。まあチェックには役に立つけど。なんかICレコーダーが全て悪いような気もするんだが。

でも昨晩の最悪のセッションと最高のパーカッション大会の楽しさで思い出したんだ。
というか、気がついたんだな。
私、最近ピアノに対して完全に受け身になってる。プロでもないのに、他人に求められることをできるようになろうとする、そんなことばかりに目が行ってる。それで音楽本来の楽しさや、自分がやりたいことを完全に見失っている。うっかりプロ目指して就職活動的ボーカル伴奏の練習に走ってしまいかねないような茫然自失にいたんだな。

私はアマチュアだ。プロに付きまとう責任とは無縁のところでいくらでも自分の好きなように好きなことをやって、そのために頑張ればいいはずだ。そもそも音楽を通して、自分をどれだけ投影させることができるか、それこそが私の一貫したテーマではなかったか。
それを忘れかかっていた。
自分を強くもって激しく主張していかないと、それこそそうしないとヤマザキさんの言うような“ハチャメチャさ”など持ちようもない。シーンの現状や金に負けちゃダメだ。自分の音楽を追求しないと。もちろんそのための努力は惜しまないし、今までのモトオカさんのレッスンもそれに役に立ってきた。この路線は譲れない。
少し、目が覚めたよ。
変な方向に行ってた。

だからと言ってジャムセッションに行かないのか、ジャムセッションを嫌って離れてしまっていいのか、というとそれも違うような気もするし、昨日のあっきちゃんとの会話のようにこの話も落としどころはないのです。
ただ、自分の一番やりたいことをやる。そのための努力は惜しまない。そして自分が素直に投影できるような音楽世界にいれたら、と思います。もちろん歌伴なんだろうがなんだろうがピアノを通じて無我の境地に達してしまうような名人もいるだろう。だから尚更この話は難しくて断定不能で落としどころがないんだけど・・・。

とりあえずまずは自分の感性を信じて、自分がやりたいことを、自分がやりたいように、自分を表現できるようにやること。
それがたぶん一番楽しい。
[PR]
by kento_ogiwara | 2012-02-05 16:53 | BLOG;音楽について | Comments(0)