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会津高原小旅行~尾瀬

最近人疲れしたのと、窮屈な気分も抜けなかったので、先週末、とりあえず空間的に広いところに行きたい、と思って、北は福島、会津高原に遊びに行ってきた。
お世話になったのはこれで3回目の滞在になる木綿館さん。
10年以上前に結婚前のカミサンと行ったのと、5年位前にヤローどもと行ったのと、これが3回目。ウチの親も常宿にしているところで、オーナー夫妻とも仲がよく、ぶっちゃけ私のCDまで置いてある。
何はともあれ、その美しい雄大な自然をご覧あれ。

行きの電車で下今市で乗り換え。ハラが減った。駅弁はないのか?と駅員に訊くと、
“あそこにおじさんがいますよね。あの人がお弁当売ってるんですよ。”
と。
果たして、そこには“おじさん”がいて弁当を売っていて私たちは買って食った。
おじさんの図。
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さらに乗ること数時間、単線鉄道が会津高原駅にせまる。
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やっとこそさ着いた会津高原駅でバスを待ってる間、雲を見ていた。カミサンはオバチャンたちと雑じって駅の店で売っていた冷やしトマトにかぶりついていた。
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木綿館について付近を散策。ここらへんをあるいているだけでも色んな花が咲いていたり、5月にはふきのとうをとったりもできて充分良い。
かわいい写真が撮れた。
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でっかいナメクジ!
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戻ってきておいしい晩メシ。
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肉!美味しい牛肉。
メインはさらに白身魚のお洒落なやつ。あ、ライスはおかわり無料ヨ。
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メシを食い、再び今度は夕闇の迫る雲を見る。
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近くの温泉に入りじっくり疲れをとり、夜のペンションの灯りや月を見ながら帰り、泥のように眠ったのでした。部屋は高原と言うこともあり、この時期は一年で一番暑い数日だったということだが、涼しく扇風機も回さず快適に眠れました。
翌日は尾瀬。今はニッコウキスゲがシーズンらしく、それでお客さんも多いらしい。
バスで沼山峠まで出て、山道を歩く。
途中、見晴らしのいい休憩場で尾瀬沼を臨みながら写真。
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さらに下り、やがて湿原が近づく。
そこはあたかも極楽浄土への入り口のようでもあり、天国への入り口のようでもあり、はたまた、生まれる前に私たちがいたところへの入り口のようでもある。
もともと並木道や、その向こうにあるものに心を惹きつかれる私、ここは尾瀬の中でも一番ドキドキする場所です。
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さてさて、極楽浄土はどんなところでしょう!?
わたしたちが生まれる前にいた原風景はどんなものなのでしょう!?
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できるだけいい写真を集めたつもりだけど、あの空間の不思議さは行ったものにしかわからないかも知れません。また10月の始めの1週間程はこの湿原は草紅葉に包まれ、また全く違った雰囲気になります。それこそ私たちの記憶の源泉、原風景と呼べるものに近いものがあります。あの世のようでもあり、ずっといた場所のようでもあります。
実はその草紅葉の季節にヤローどもと行ったのが5年程前で、写真もあります。もちろんそういった不思議な雰囲気の写真もいっぱい撮りましたが、今回の記事では割愛します。どうしてもという方は私に直接問い合わせていただいて、草紅葉の尾瀬の写真をお見せできるようにしようと思います。
湿原を歩ききって尾瀬沼の湖畔、長蔵小屋に着いた!!!
いつかこの長蔵小屋で泊るのが夢なんだよなあ。天国で泊るのって、過ごすのって、どういう気分かなあ、とかちょっと興味あります。
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休憩所で木綿館のおかみさんが持たせてくれたふき味噌のおにぎりを食べる。そしてこの世の果てのような尾瀬沼湖畔へ。しばらくぼんやりする。
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この小舟はどこに行くのだろう・・・。

浅草から4時間以上の会津高原駅からさらにバスで山道をいくこと2時間以上、さらにそこから山道を2時間以上歩く、という難所ながら、やっぱり尾瀬は行って損することはないと思います。あるいは行きにくいからこそ、尾瀬は尾瀬であり続けるのかな、ともチラッと思ったり。
特に草紅葉の季節はお薦めなのでみなさんも装備をしっかりして行ってみてはいかがでしょう。

オマケ。
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by kento_ogiwara | 2011-07-24 22:05 | BLOG;その他 | Comments(0)

久しぶりのレッスン

半年近い長い延期を経て、今日、久しぶりに私のジャズ・ピアノの師匠、モトオカさんとのレッスン。
家の前行ってピンポン押しても、・・・出ない。もう一度ピンポン。・・・出ない。
しかし家の中からか、
「ケント~?ケント~?あれ、隣のウチかな?」
とトチ狂った声がして、やがてドアを開けると、そこには完全に寝ぼけた師匠が。
「なんだよこれは?ありえないよ。暑い。ちょっと横になってたら寝ちゃったよ。」
と目を真っ赤にして言う師匠。師匠もいい加減60を回って久しい。彼の健康を心配してしまった。実際8月は北海道にちょっと帰るらしい。お盆もあるけどこりゃ暑さからの逃亡だな、などと邪推するのであった。

で、例によってレッスンで教わったことのメモをこのブログでさせていただきやす。

まず良かったことは、久々のレッスンの手土産にテーマのアレンジからソロまでなんとか弾けるようにした“For All We Know”は修正もなくサウンド的にもレッスンで習ったことをふんだんに使っているし、内容的にもOKだと。3連譜でフレージングしないと一つもフレーズ弾けない3拍子の120というテンポで。その試みは評価してもらったし、これからもどんどん3連譜を弾いていくつもりだし、そういうテンポや拍子で自分を追い込んでいくつもりだ。モトオカさんも「みんな3連譜を弾かな過ぎる。」と断言していた。もうちょっと安定感を出すために、今私は3拍子を弾く時に3を、1,2,1、という感じで捉えているが(ジョン・コルトレーンの3拍子の影響かな、というか彼の3拍子が好きなもんでついそうやりたがる。2小節で1まとまりみたいなアレ)、1,1,2、という風に、ま、言ってみればドラマーがハットを2拍目に踏むイメージの3拍子で感じてやるといいのでは、と言われた。しかしモトオカさんにも言ったけど、どうやって実際ドラマーが2拍目にハットを踏んでくれれば必然的にその音聴いて弾き方も変わるだろうけど、ソロ・ピアノの場合は弾きながら自分だけで意識してそう弾かなければならないから大変だ。ってそれを言ったらお終い、というか4拍子も2拍子も何も弾けないけど。
昔から仲間うちでも言っていた自分の中にビートを持つ、っていうコレ、オレが死ぬまでに体得できるかも疑わしい。それくらい難しいことだ。ま、頑張ります。
色々連弾したけど、4拍子でテンポ100の“I cover the waterfront”も3連譜が弾けないとイマイチしまりのない演奏になるのだが(一方でこのテンポは8分も16分も行ける。かつ3連譜がたまらなく気持ちいい。)やはり安定感に課題を残した。もちろん3連譜を意識的に入れようとはしてるけど、色々あるから迷ってしまう。考えてしまう。と弁明した。最初に連弾した“I should care”の4拍子でテンポ130は楽しかったな。褒められた。3連譜もよりよく弾けている、と言われた。とゆーか、「良かったー。うまくなってて。」と言われた。あまりうまくなっている実感はないが、実際レッスンは中断してても練習はハノン1~20、32~35、+3連譜のスケール練習8種類は毎日必ずやっていて、できるだけ曲も色んなテンポ、拍子のものを弾くようにしていたので、「そうすかね?まあ弾いてなかったわけじゃないけど。」と答えておいた。
さらにベース・ラインの練習は滅多にしてなかったので当然弾けないの嘆いてモトオカさんみたいにどんな曲でもパッとベース・ラインを出せるようになりたい、と言うと、
「誰かにピアノ教えればいいじゃん?」
と来たもんだ。ホザケ、と思い、
「いやっすよ。」
「そうなの~?後輩でやりたい人とかいないの~?」
と寝ぼけていた。

と自慢話はコレ位にして、次回までの課題を書いておこう。
今回のレッスン再開の原動力になったアイデアで、“Django”をやることになった。
そのアイデアとは、一言で言うと、左手だけである程度曲を作ってしまう。その上で右手でアドリブをとると革新的に自由に弾ける、というものだ。モトオカさんも最近気づいたアイデアらしいが、きっとそうなると今のところ信じているそうだ。私もこのモトオカさんの試みに乗ることになった。
つまり今までの私のピアノは、ほぼ右手で曲を作っていた。右手でメロディをとり、同時にビートを出し、コード進行を伝え、ということを右手でやり、左手は補完的なものだった。ところがこれから、左手を目一杯広げてルートも10度(つまり上の3度)も弾いて、できれば間の人差し指とかで7度なども弾いて、これをシンコペーション(と言ってもボトムが4ウラから入る意識でってことだけど。)して弾くことで曲のビートとコード進行をもう左手だけで作ってしまう。一見今までの右手で作るソロ・ピアノから左手へ、と言いそうだが、それは違う。左手でビートとコード進行を作ってしまうので右手のメロディはまるで何にも囚われず弾くことができるし、そのための左手のハードワークだ。つまりこれは左手をリズムセクションとした一人バンドだな、というのが実際に近い。
ただ1度から10度というキーによっては届かない音を目一杯手を広げ続けて曲を弾くので、大変だ。しかし師匠、
「やってみて。腱鞘炎になるかも知れないけど。」
ほざけ、と思って、
「腱鞘炎になってピアノが弾けなくなったらどうするんですか?」
というと、
「それはダメ。」
無茶な。ま、
「腱鞘炎になったらすぐピアノの練習をやめるんだ。」
というなんのありがたみもないアドバイスも頂戴したが。
やれやれ。

さらに肉体の話は続く。
私の演奏の中で目ざとく薬指と小指の弱さに気づいたモトオカさん、モトオカ特製、4,5番強勢練習法(モトオカさん命名、「鬼の子退治」)伝授。驚いたことにこれをやる時、メトロノームは切れ、と。タッチに集中し、時間のことは考えるな、と。私の成長は一言で言えば、ピアノを弾く時は必ずメトロノームを鳴らす、という歳月によってつちかわれたのに・・・、非情な宣告。
さらに小指のアクセントについて、手の甲側の小指の根元の関節が立つ感じで小指の第二間接と指の根元の間の筋肉の力を使って低いところから手を持ち上げるようにして強い力でアクセントをつける。その際、小指は反る。
愕然としたね。
「そんなことしたら私が子供の頃習ってた先生に怒られます。オレは卵を軽く握るようなこの形で・・・」
と軽く反駁したが、モトオカさんは引き下がらなかった。アクセントの付け方には2通りあって、一つは上からのもの(上から叩くようなね。)、もう一つはこの下からのもの(小指の内側の筋肉の力で低いところから手を持ち上げるように力を入れる)があり、その小指のアクセントが欲しいのだ、と言う。言っている意味はわかる。フレーズの中で一番高いアクセント・ノートはえてして小指が担当するものだし、パッと思い浮かべるだけでレッド・ガーランドなんかはその典型だ。
しかしオレは曲がりなりにもこのクラシックの基礎に忠実な“卵を軽く握るような形”で幼少時代のそれはそれは恐かったイシハラ先生のレッスンを過ごし、辛かったけど、それが今の技術の基礎にもなっている、と思っていた。曲がりなりにもオレは最初に学んだ基礎をもとに30年ピアノを弾いてきたのだ。
苦ぅっ!
痛ぅっ!
トランペッターがアンブシェアを変える時の苦しみってこんな感じなのかな、とか想像したり。
でもやっぱりこの問題はもう少し考えてみたい。自分のタッチがジャズの中で映えないのは実はもうとっくの昔から知ってる。もっとスタッカートっぽく、マルカートっぽく弾くのがジャズ・ピアノってもんだ。そういう(殆ど全ての)ピアニストに比べて、自分の音が悪い意味でねばっこくて、立ち上がりの気持ち良さがあんまなくって、鈍くて重くてダサいことも知ってる。だからいまひとつスウィングしないのも知ってる。
しかし、
まあ、
・・・、


閑話休題。

エロール・ガーナーをやろう!!!という話もあったけど、今日は一緒に彼のソロ・ピアノ・アルバムを聴いて、やはりあまりにも謎が多過ぎ(クローズド・ヴォイシングでのコンピングなのになぜ不足感がないのか、など)、私の「猿真似でいいからやりたい、」という懇願も、まあお互い余裕があったら研究、ということになった。私もちょっと他力本願過ぎたな。モトオカさんに教えてもらえば良かろう、と思っていたけど、まず自分が燃料を割いて研究しないとダメだな。
でも二人の会話で出てくる名前が去年まではバド・パウエル、セロニアス・モンク、ビル・エバンスだったのが、今回から、私の2月のヨーロッパ旅行を経て、完全にアート・テイタム・エロール・ガーナー、アーマッド・ジャマルに変わったのは面白かった。モトオカさんも笑っていた。

そんなこんなな久しぶりの再開レッスンでした。
とりあえず“Django”。
テーマ作り、左手作り、ソロへ。テンポ120の4拍子。
色々なコペルニクス的転換が感じられた再開レッスン。
新しいフェイズに来ているようです。


後日譚~

私がこの記事を書いていた同じ頃、モトオカさんが自分のHPにこんなことを書いていました。
この日師匠の仕事は私のレッスンだけだったか​ら終わって私が帰って一杯やってから書いたか。私のことは全く出​てこないけど、なんとも言えない気持ちだ。何だかやりきれない…​。一つ、なんとなく感じるのは、“頑張らないと”、“まだまだ私​にはこの人の背中も見えない”ということ、“誠実であらないと”​など。自分の小ささがもどかしくもあります。
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by kento_ogiwara | 2011-07-10 23:14 | BLOG;音楽について | Comments(0)

パンネクック

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2月のオランダ・フランス旅行の時オランダで世話になったSの家族が、私たちの帰国後日本を訪れることがあり、その時オランダ料理を気に入ってた私のためにパンネクックの粉を土産に持ってきてくれてたのね。
コレをさっき作って食べました。
パンネクックは好きなようになんでもトッピングしていいんだけど、一番定番なハムとゴーダ・チーズを100円ショップで買ってきて食うことにしました。

まず粉を水でわるべし。
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焼くべし。
せっかくだからアムステルダムで買ったサッカー・オランダ代表10番スナイデルのユニフォームを着て気持ちを高めた。
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裏返してハムとゴーダ・チーズをトッピングしてちょちょいと焼けば・・・、
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でけた!!!
食うべし。
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うまかったぁ~。
そしてやはりかの地の味がしたなぁ~。
すっごい思い出した。
味を通してかの地オランダを追体験できたような感じがしたなあ。
ショート・トリップ。
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オマケ。

今度は何をトッピングして食おうかなあ。
モッツァレラ・チーズとトマトでピザ風にして一度食ってみたいからそれやろう。
サッカーでは長友のインテル・ミラノへの完全移籍も決まったし、同僚になったスナイデルにも引き続き長友を可愛がってもらいたいものだ。
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by kento_ogiwara | 2011-07-03 12:46 | BLOG;その他 | Comments(0)

気仙沼のこと

震災からしばらくたってから、長いことテレビはほとんど見ていない。
今日、仕事帰りになんとなく実家に行ってメシを食って缶ビールを飲んでいた。
実家はテレビがついている。
19時になって、“ぴったんこカンカン”というバラエティ番組が始まった。石ちゃんと安住アナが行っていたのは気仙沼。なんでも震災後初めてのカツオ漁の水揚げに立ち会うそうな。
船に掲げられた網の中はキラキラ魚でいっぱい。
揚げられる魚はカツオの他に、シーラやメバチマグロまであがってる。それらを選別しカツオを選り分ける石ちゃん。どの魚もピチピチ光っててホントにキレイ。
しっかり選別の水揚げの仕事を手伝ったあと、そのまま漁港で獲れたてのカツオを刺身にして食わせてもらう石ちゃん。
“まいう~!”
ホントにうまいんだろうな。
こんなうまいものって、ほかにないくらいうまいんだろうな。
石ちゃんもホントにうまそうに“まいう~!”言ってたもんな。
さらに漁港の人々もちょっと口にして“まいう~!”

震災の直後、まだほとんどが壊滅状況の中で、気仙沼市長が、
“気仙沼には漁しかない。マグロは間に合わないかもしれないけれど6月のカツオには間に合わせる。”
と言ってた。
なんて夢物語、って思ったさ。
でも6月28日に初めての漁に出て、実際水揚げには石ちゃんや安住アナも来て、たくさん魚がとれてピチピチいってキレイで、まいう~で、そんな風になった。
凄い、って思ったさ。
感動したさ。

実は気仙沼にはちょっとした縁があって、14年くらい前、東北に車の免許合宿にいった時、気仙沼出身のそりゃもうキャラの濃いいヤンキーたちと仲良くなったのさ。散々しゃべって(彼らの気仙沼弁は抱腹絶倒もののすさまじさだった。もう何言っても面白かった。)、メシ食って、遊んだ。帰り際に手紙を渡したりしたが、当時はケータイ電話なんて持ってなかったからそれっきりの仲になってしまった。
気仙沼も信じられないくらいの犠牲者を出したからそりゃちょっとは彼らのことを心配もしたさ。でもきっと大丈夫だと思う。なんとなく。

だからちょっと気仙沼のことは気にかけてた。
それがひょんなところで、というかテレビのバラエティ番組で、市長の超非常時における復興の言葉、ある意味その通りに、6月28日にカツオ漁、水揚げとなって、そこにある魚たちのまたキレイなこと、おいしそうなこと、でまた誇らしい日本人たちがここにいる、と思いました。
YES! THEY MADE IT!!!!!
LOOK AT THESE PEOPLE!!!
WE ARE JAPANESE!!!!!

とても素晴らしい映像だと思うので、誰かYouTubeにでもアップして、あの震災後初の気仙沼港の喜びと美しさ、気高さを誰でも見れるようにして欲しいです。

母から教えてもらったパール・S・バックという人の絵本“津波”の動画を貼っておきます。
映画“奇跡”で描かれていた私たち日本人のメンタリティ、あるいはこの気仙沼を生きる人々のメンタリティと同じようなことが、また少し違った語り口で描かれています。

とにもかくにも復興をとげ、最初のカツオ漁に出て水揚げでは石ちゃんや安住アナはもちろん、私たち東京のものも喜ばせてくれた気仙沼の人々に感謝です。
気仙沼よ、永遠なれ。
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by kento_ogiwara | 2011-07-01 21:42 | BLOG;社会福祉士として | Comments(0)