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利用者援助と公共の交わるところ

このことはもうかれこれ2年以上書きたいと思っていたことであり、私の仕事の上でも最も重要な命題の一つで、そしてもしかしたらあるいは一番難しいところかも知れません。

さて、
このずっと気になっていたことをどこから始めようか。

知的障害者と地域の中に入って歩いている時、その利用者のしたいこと、やりたいこと、こだわっていること等が、必ずしも公共の場で認められ難いことである場合があります。
固い言い方で言えば、必ずしも利用者の自己決定に基づく行動が、公共の福祉と相容れない、ということです。
自己決定の尊重は重要ですが、それが本人にとって必ずしも利益とならない場合がある、というジレンマについては過去にも書いたと思います。及びそこから生まれたのが利用者にとっての最善の利益の追求、ということも。

なんでこんなに当たり前のことをずっと課題にしたままになっていたか、といえば、それはこれが理屈では簡単ですが、実際の臨床、実践の場ではえてしてとても難しいことだからです。
私の仕事の一つの重要な課題は、利用者の心の安定をはかることです。このことの重要さや方法論、及び私の考えもこれまで書いてきたことと思います。利用者の心の安定をはかり、利用者の自傷行動、及びそれとほぼ同列と言える他害行動を専門職としてできるだけ起きないようにする、これは一つの仕事であり、技術です。私は特に自分の性格上、利用者の自傷行動を見るのが苦手で、とにかく自傷のある方にはどうやったら気持ちの安定をはかり、自傷をさせないか、そのことにばかり頭がいってしまいがちです。
さて心の安定をはかる、と書きましたが、そのことを模索する中で、どこまでのクライエントの行動を容認して、どこまでを制限するのか、という問題もあります。つまり当然の心理として自分のしたい行動を抑制されるのは誰にとってもストレスです。ある意味容認していればその抑制されるストレスは少なくともない、と言える可能性もあります。実際、私の職場でのスーパーバイザーの学者も、許容できる範囲では許容してあげて下さい、と言ってたことがある。もっとも何でも許容すればいいというものではなくて、もちろん公共を害する行動、クライエント本人にとって不利益になるような行動、安全を脅かす行動、などは当然抑制しなければいけないし、私の今までの経験則から言っても、許容し過ぎるとそれがかえってクライエントの心の安定を揺さぶり、最悪自傷などの状態につながってしまうこともある、と感じている。
私が苦労する理由は、抑制的な介入の仕方が下手であることだ。単に気が弱いのだ。自分に人に対して指導的になれると思っていない、ということがある。上司は私のことを「優しいから」と言っていたが、私はそのような軟弱な「優しい」を脱却しようと日々心掛けているけれど、まだどうにも足りない。しかし本当に優しくなりたかったら、本当の意味でクライエントの利益に貢献できるように、利用者をうまくコントロールして(すごく差別的な言い方だが)、公共の中で健常者たちと共存できるように方向性を示していくことが出来なければならないだろう。
そこにはクライエントと私の間でさらなる信頼関係を築いていく必要もあるだろうし、そのことで利用者をうまく支援して公共と交わるところでも利用者のスムーズな行動を保障していくことに繋がると思う。私の夜学時代、基礎心理の先生はとてもアジテイティヴな人で、「受容と共感で解決するなら苦労しない」、オペラントの療法などを引き合いに出して「イルカに芸を仕込むようなものですよ。おまけに何の根治治療にもならない。でもいいじゃないか、これでQOLが上がるなら。」、あるいは「知的障害者と健常者だったら知的障害者の方がよっぽど話聞きますよ。健常者は聞いているフリがうまいだけ。」など、臨床にコンプレックス丸出しの基礎心理学者特有の言い回しだったのだが、最後まで私の尊敬するクラスメイトは彼のことを認めなかった。今ではそれがわかるような気がする。信頼関係の形成、熟成がそのままいい支援、クライエントのいい状態につながるし、そうなるためには受容や共感は否が応にも必要だからだ。あと、知的障害者、って、そういうほど知的に障害されてない。ヘタな健常者と話しているよりよっぽどコミュニケーションに困らない。みんなと一緒に生活してて、一人一人が知的障害者だからという理由で何か私が困ったこと、ってないし、たぶんあそこで勤めてる人みんな同じように感じていると思う。正直知的障害者、って、彼らの何が知的障害者なんだ?彼らは障害者なのか?と思ってしまうこともあるほどだ。それぐらい私たちはコミュニケーションしてるし、毎日が生身の人間とのぶつかり合いだ。
さて、公共と交わるところで利用者の求めることと、公共の利害が(ひいては利用者自身の利益が)拮抗してしまう、という話だったが、このような場合で自己決定の尊重よりも、クライエントの利益の保護が優先される、というのはもういいだろう。今日上司に教わった考えで、私に欠落していたのは、支援者がついていながら公共に反することをしてしまうようでは、支援者なしで、つまりは一人で行動する時にどうなってしまうのか、という問題意識だ。私は以前本ブログでニーズがある限りのサービス永続をぶち上げたけれど、現時点でさえそうやって24時間365日サービス利用はほとんどまれで、多くの知的障害者がサービスや援助なくして行動しなければいけない時間が多くあるという現実がある。その中でクライエントが一人になった時でも地域や公共で生きていけるように、そこまで考えて私は日々の仕事も行うべきだし、そうすることが本当の意味での自立支援に繋がると思う。少なくともクライエントに無期限のサービス利用など行われていない現状がある限り、それは理念の問題ではなく、現実的な対処だと思う。

さて、ここまで明快なのに、なぜ今までこのことについて書かなかったのか、書けなかったのか、なのですが、考え方は明快でもいざ実際の現場では難しいことがあり、そこの乗り越え方をどうにもわからなかったからかもしれません。
こだわり的な行動に利用者が出て、それが公共に反する場合(暴力、器物破損、住居侵入、交通の安全の阻害、危険行動etc)、当然支援者は止めなければいけない。ただこだわりが強い場合には簡単に止めることができないこともある。こだわり行動はそのクライエントの情緒、支援者との関係性、日内変動その他、多くの要素によっても左右されていて、こだわりが非常に強い場合もあれば、理由が特定できない場合もある。自閉症などの場合では強い言葉の声かけ(「ダメ」「やめろ」など)に弱く効果的でないということもあるし、力と力の問題にしてしまうと何か違うような気がする上、おそらく私の予想では力で利用者を動かすのは不可能か、少なくとも一般的にはなりえない。
どうやって?
これはずっと私が悩んでいたことであり、ずっと抱えていた課題だった。
上司は言う。「気合い」だと。
ここで言う「気合い」は恐らく一般的な意味で使われている気合いとは微妙に意味が違うと思う。一般的な、精神論的なそれではない。
私たちは職場で、いわゆる感応的同調、とというものをよく使うのだが、それは何かと言うと、例えば小さな子供にむかってイライラしてる時に笑いかけても子供は笑ってはくれないだろう。いくら顔だけ笑っても、子供はその人のイライラを感じ取って恐くなるだろう。反対に顔は特にそのままでも何か楽しいことを考えてウキウキしている時は外見に関わらず子供はそのウキウキを感じ取って楽しい気持ちになる。こういうのを感応的同調と言う。これを私たちは職場で使うことにより、必ずしも言葉がなくても自由にコミュニケーションして、会話をしたり、あるいは気持ちを共感しあったりしてお互いメッセージを発しあったりメッセージを受けあったりしながら、集団で活動的に生活することができる。
また職場で良く使われる言葉は場面転換だ。みな生活の中で各場面各場面を切り替えて生活している。今は何をやっているのか、次に何をするのか、そういったところを一つ一つ踏みながら生活している。その生活様式の一つ一つ(シェーマ)を安定して生きていくのが私たちであり、そのために生きやすい生活様式を構造化していくのが支援のあり方の一つということも過去に本ブログに書いた。
何かに利用者がこだわって離れられない時はいわばこの切り替えがうまくいっていない、という面がある。切り替えが効かなければ公共に反した行動でもなかなかその行動から離れられないことがある。調子が良い時は切り替えも効きやすいが、不安定な時、気持ちが良くない時などはえてして切り替えが効きにくくなりがちだ。
そんな中でそのような状況で利用者の反公共的な行動を抑制するために、うまく場面転換してもらって次の行動を指し示して次の行動に入ってもらうのに使うのが「気合い」だ。イメージ的には感応的同調を前提として、こちらがはっきり強く気持ちを次の場面に入れ替えたり、ある切っ掛けというか弾みというか勢いをつけてこちらが次の場面に入ると、クライエントも動いてくれることが多い。かなり強い気持ちが必要なのだが、その強い気持ちの勢い(言うなればこれが「気合い」!?)があれば、感応的同調でそれを感じた利用者が同時に次の場面に動いてくれる、ということは日常的にある。この「気合い」を用いて利用者をうまくコントロールして、反公共的な行動から遠ざけることができれば。この「気合い」は一つのキーワードにしていいと思う。
もちろんそれでも難しさはあると思う。ただ善処するしかない。勇気をもって筋を通さないといけないこともある。
この仕事で最大の難関。
利用者援助と公共の交わるところ。

補足的になるが、さらにこの問題を複雑にしているのは、どこまでが反公共的なことでどこまでが許容されるべき行動なのか、それがあいまいで、支援員個人個人の間で開きがあることだ。私のような雑な人間はどうしても許容する範囲が広くなりがちなのだろうし、きっちりしている人はより抑制的だろう。その間の細かなずれがこの問題をより難しくしている。このことも前に本ブログで書いたことがあり、つまり許容しがちな人はより抑制的に、抑制しがちな人は許容的に、反対の方向性を頭に入れて、と先輩にスーパービジョンされたことがある。そのことはもちろん今でも覚えている。それに加えて組織人として働く以上、常にスーパービジョンや意見交換を絶やさず、組織としての着地点を教わって、そこに自分を合わせていく必要もあると思う。

今回の記事ではかなり多くの要素について触れました。今までの仕事の集大成といってもいいほどのほとんど全ての要素が凝縮された命題でした。その分読みにくい文章になったとは思いますが悪しからず。
ずっと書きたかったことについてようやく書けて良かったと思います。
少なくとも自分へのメッセージとしては3つのことを忘れないことだと思います。
1つは「気合い」のキーワード。2つ目は援助者がいない時のクライエントのことも考えてそれに見合った本当の意味での自立支援を目指すこと。3つ目は上司が言っていたことでもう一つ、行動を抑制する時もきちんと何故それがやってはいけないことなのかを伝え、勇気を持って筋を通さなければならず、そしてそうすることでクライエントに理解してもらうことを目指す、このことです。
これらを実践していく中で、クライエントとの更なる信頼関係が深まれば、よりよい支援、援助、そして介入の仕方の体得に繋がっていくようにも思います。

もうすぐ年が明けますね。私があの現場に最初に顔を出したのが約3年前の1月。
4年目も頑張っていこうと思います。
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by kento_ogiwara | 2010-12-16 00:15 | BLOG;社会福祉士として | Comments(0)

障害者福祉サービス支給の実態; 断片

だいぶ前になってしまったが、職場の研修で現在の障害者福祉サービスの支給の実態について少し学ぶことができたのでそのメモをば。

えーと、・・・、どうもこういう制度的なことについては冗舌になれなくなってきてるな。オギワラくんが制度的なことについてあまり執着しない態度で仕事をしていこう、と思って働いていることもあるし。
まあ徒労感が付いてまわるし。前に社会福祉士の実習できた人と話していて、障害者自立支援法について民主党に政権が変わってこの法律がなくなる、というタイミングで、実習生曰く、“勉強し終わる前に法律が変わる。”とのたまっていましたが、まったくもってそんなことばかりで、どうにもやってられんわけですよ。
まあ、ちらっと聞いた話ではこの法律の最大の問題である応益負担(=1割の利用者の自己定率負担のことね)は廃止される、ということは今年の4月位に合意に達したらしい。しかしその後話が遅々として進まず現在も定率負担廃止を求める運動も行われているらしい。
テレビをつければまた政治のドタバタした感じをメディアがドタバタした感じで伝えていて、私としては付き合う気になれないのですが、まあ、よくわかりません。私としては政権交代の夏があってその後まもなく政府による福祉従事者に対する手当の給付が始まり、貰う給料に毎月1万円位の手当がつくようになり天井にアタマを打ち付けたくなるほど喜びました。今もその手当の給付は続いています。福祉従事者の低待遇は長年の課題でしたが、私はそれまででお上に対して最初に怒りを、次に無力感を、そして最後には無関心を向けるようになってもいましたが、初めて自分の懐にお上が直に関わったという意味でもあの手当は画期的でした。はい、ぶっちゃけ私にとっては1万円はもの凄く大きな額なので政府にはこの手当の給付はやめないでもらいたいです。

とまあ、場末な床屋談義にまたなってしまいました。こういうことを書いてるとホント、なんか微妙に疲れます。よって本題に戻ります。

簡単に障害者サービスの支給の受け方を最初に書いておくと、まず障害者や障害者を持った親御さんなどは役所に行きます。2006年の障害者自立支援法から、当然管轄は市区町村です。そこでまあサービス利用の申請をして、障害の程度を計る認定を受けて、受けることの出来るサービスの範囲が決まって、その範囲でサービス利用の開始、となるわけですな、おそらく。まあここら辺の手続きなど詳細、及び実態、それに対する評価などはインターネット上でごまんと出ていると思うので知りたい方は調べてみてください。

でね、実際のところその後知的障害者などの親御さん(以下、親御さん)はどうしてるのか、という話です。
それ、結構気になってたんです。社会福祉士の勉強をした時、障害者ケアマネジメント、という言葉を概念としては学んだけれど、どうも障害者福祉の世界に足を踏み入れて早3年近く、未だにそのような実態を身近に感じることがない。それで職場の研修の時に、思い切ってこの素朴な疑問を訊いてみたわけです。市区町村にケースワーカーがいることはわかった、一方で親御さんが直接ケアホームや事業所に移動支援、行動援護、ショートステイなど掛け合って利用にこぎつけていることもわかった、で、一体全体介護保険におけるケアマネージャー的な人はいるのか?と。
答えは、いない。
全て親御さんが自力でサービス利用までの契約や、利用の仕方のアレンジ、折衝全てやっているのが実態だそうだ。もちろん役所に行けばパンフレットとかくらいはもらえるだろうし、あとは人づて、親御さんたちどうしによる情報交換、口コミといったものを頼りに、月初めに親御さん自ら利用を求めるファクスを山のようにあらゆる事業所に送ったり、役所に行ってはうまくごねてサービス支給をとりつけたり、涙ぐましい苦労があるらしい。どんな地域資源としての福祉サービス事業所があるのか、どんな制度上の使えるメニューがあるのか、及びどこを、何を使えるのか、そういったこと全て親御さんが自らの力で調べて、サービス利用の契約までこぎつけているようだ。おそるべし当事者パワー、と言えるべきか。。。まあそう言うのは簡単だけれど、親御さんたちとてクライアント本人たちと同様親しくないわけではない仲、社会福祉士の常識からいってもクライアントは利用者とその家族、大変そうで心配になってしまうような話だが。

さて役所のケースワーカーは特に当てにならないようだ。この研修で講師をやって下さった相談支援事業者も、この4月は大変だったそうだ。というのも役所の異動でそれまで福祉となんの関係もない仕事をやってきた人がケースワーカーになり、しかもその利用者に関する情報の引継ぎもなされておらず、本当に苦労したそうだ。我々福祉従事者は利用者一人一人について知り得ることが仕事上の財産になるし、逆にその利用者について何も知らないと仕事にもならないのだが。まあ役所をめぐるよくあるような話の一旦がここでも。私見では役所のケースワーカーにもっと勉強しろ、仕事覚えろ、自分の市区町村の持っているサービスのメニューくらいは知ってから仕事にあたれ、やる気があればそれプラス事業所等の社会資源もさらっておいてね、ぐらいは言いたいが、現実的な話、そうやって仕事覚えて一人一人のケースについて学んでもどうせ覚えたころまた異動だろうし、そして何より今上に挙げたようなことは当事者が全て自力でやってできてしまっていることでもあるので、ぶっちゃけケースワーカーは要らないと思います。役所には一応サービス支給の一連に関する経理上の事務をやる人は必要でしょうが、一人一人のケース(クライアント)にケースワーカーをつける必要は特にないんじゃないかな、と思います。
まあ公務員を弁明するならば、10年ほど前まで障害者福祉の世界ではそれまで障害者のニーズに対しては公が一方的な「措置」としてサービスが支給されていました。サービス事業者を選択するのはあくまで公であり、当事者たちはサービスを公の意向のままに受ける一方だったのです。それがサービス利用の原理が利用者と事業者の対等な「契約」に移行するにあたり、利用者側がサービス事業者を選択するようになりました。事業者も社会福祉法人やNPO法人といった民間のものが増えてきた流れもあるし、公務員から見てもサービス支給のあり方とともに障害者福祉サービスを取り巻く風景にもだいぶ変化が多かったことでしょう。そんなこんなで混乱してたんですかねえ。よくわかりませんが。まあこの10年が福祉の世界での大混乱の時代であることは事実ではあるようです。

まあそんなことより深刻に思われたのはマンパワー不足です。
私はとっても幸運なことに福祉の仕事をして食っていっていくことができていますが、この業界での移動支援や行動援護などの仕事をするにも、まとまった時間で、定期的に収入を得ることが難しい無味乾燥な現実があります。単発のガイドヘルパーの働き方だと、収入も不安定な上、多くの色々な利用者をその場その場でみるため各利用者についてのケース・スタディも積み重ねにくいし、情報が不十分なままリスキーな状況で働かなければいけないといった難しさもある。こういった移動支援、行動支援、あるいはショートステイといったサービスはニーズは確かな上稼働率も決して低くはないのに、その性質上不安定で採算も悪く、従事者の確保も難しく、おまけにそれらの理由で利用者のニーズに必ずしも応えられない、という悲しいものがある。
そういうところに目をつけてとにかく、こぼれおちる人たちを見る、尊敬すべき同窓生がいましたが、当然365日中、休みは2,3日です。尊敬しますが、なかなかできることじゃありませんし、そういった人々に頼りきったままでいいのか?となるとそれは一つの見逃せない課題のようにも思えます。これは昔からこの世界にある問題なのかもしれません。一体どれだけこういった人々の意志にのみギリギリの部分を頼っていくのか。

今は保育所でも規制緩和の流れの一環ともとれる動きで、保育士を置かなければいけないのには変わらないのだけれど、たとえば1日を3つの時間にわけてそのシフトの中で一箇所に保育士が入っていれば良い、という新しい最低基準が導入されたとか。国の意図は簡単です。保育サービスをできるだけ低コストなパートで補っていければいい、というものです。これと全く同じ動きを私も高齢者のところで働いていた時に経験しています。介護福祉士が再来年から働きながらとる事ができなくなることや、いったいこの国は福祉従事者を育てるつもりがないのではないのか、と思ってしまいます。

まあ、何がなんだかわからない文章になってしまいましたが、こういう話は苦手です。
まあ、淡々とやっていきます。というか楽しく働けているので、そのことはとても重要にも思えるので、引き続き楽しく働いていきたいと思います。色々、顔向けできないところもままありますが、私がこうして楽しく働いて、楽しく生活していることが翻っては私の周りの人々にとってもいいことなのだと思っています。
だから多少のほほんと思われても楽しくやっていけてることを大切にして頑張って行きたいと思います。
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by kento_ogiwara | 2010-12-05 18:20 | BLOG;社会福祉士として | Comments(0)