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what kind of fool am I?

いろいろ限界ありますわ。
でもかつてのように限界を超えて自分を変えていこうとは思わないほうがいいのだろう。
20前後に感じていたような万能感にも近いあの感じが欲しいとももう思わない。
周りの人間がバカにばかり見える一方で、バカを周囲に振りまいている自分の姿が残酷なまでにあからさまに見える。
でも仕方のないこと。
周りの人間もバカなら、それを言う私もバカだ。

かといって卑屈になっているヒマなどない。
私は私の仕事や生き方に誇りを持っていい側面もあるだろうし、実際私なりに頑張っている(つもり)、なのもまた一面。
日々の仕事や練習にかけているひたむきさは誰のためでもなく、自分のために何よりなっている、と思っている。
それでもどうしても見えてしまう自分の限界。

今やっているジャズ・バンドは主にエリントンやバド・パウエル、ファッツ・ウォーラーといった古いジャズ、ピアニストの作品をメインにしている。でも例外的にビル・エバンスを一曲だけ取り上げようかと思っている。私の彼の唯一のレパートリー、“what kind of fool am I?”。
ソロ・ピアノでいいから今度このバンドが日の目を見るときが来たら弾いてみよう。
“what kind of fool am I?”ともしかしたらビル・エバンスもしたように自分に問いかけながら。

この1週間はいろいろあったがあまりにもいろいろあり過ぎて、一つの記事にまとめることなど途方もない。
許容オーバーなことは素直にほかっといていつの間にか日々の雑事の中で忘れ去られていくのがよいでしょう。
いいこともわるいことも。
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by kento_ogiwara | 2010-09-25 21:47 | BLOG;その他 | Comments(0)

このピアニストという職業

先週末、モトオカさんレッスン。

初めて完全に自分でサウンド作りから仕上げた“I wish I knew”は“気持ちいい。”“キタね。”と。ハイ、合格。
やはりよくよく考えればエリス・マルサリスから相当の影響を受けたもののモトオカさんの力は借りていない、という意味で完全に自分でサウンド作りから考えたと言える“Jitterbug Waltz”は“いやー、テーマがいいねえ。”と言ってくれた。しかしソロはもうちょっと安定感が欲しいということで次回まで〇は持ち越し。まあソロをやるのもコード進行的に難しい曲であること、そもそも3拍子で3連譜を弾かないと弾けないテンポでやることの難しさなど、この大曲をやることの難しさ、大変さを二人で再確認した。私はそこそこ弾けてると思ってたので、新たに3拍子の曲を選んで取り掛かろう、と言ったのだけれど、“いや、それはいいだろ。“Jitterbug waltz”をもっと頑張って下さい。”とあまりチョーシには乗らせてくれなかった。さすがにそんなに甘いもんじゃないね。
バド・パウエルの“hallucinations”。テーマの譜割りで意見が分かれ、バド・パウエル、バリー・ハリスなどのテイクを一緒に聴いてみて確認した。私の持っている譜面はリアル・ブックのものだけれどやはりそちらが間違いで、モトオカさんの認識が正しかった。その私の譜割りと180というやや遅いテンポも相まって、私の“hallucinations”はやや音を考えて置きに行ったり、すき間を生かしたようなものになっていたが、原曲のように元気よくスピーディーにスウィングして200のテンポで次回までやるように、となった。これは今日さっそく練習したがなかなか難しい。同じ曲でもテンポが変われば別の曲だな、と思った。それにしてもバド・パウエルやバリー・ハリスは凄いな。バリーさんはモトオカさんの師匠だけど、彼の“hallucinations”は凄くモダンで、イモなところが全くなかった。バリーさんはあんなのも弾くんだな。
というわけで次回の課題はこのまま頑張ってファッツ・ウォーラーの“Jitterbug Waltz”を頑張ること(特にソロ)、“hallucinations”はテンポ200で。
それに加えて新曲はガレスピーの“Con Alma”とバド・パウエルの強烈に美しい“Dusk In Saudi”。“いや~、選曲がいいねえ。”とモトオカさん。“Con Alma”はオオニシジュンコさんがかつてトリオでやっていた非常にストイックなもの、オスカー・ピーターソンの豪華絢爛なトリオ・テイク、それにゴンサロ・ルバルカバのソロで、恩人ディジー・ガレスピーのことを深く思いながらつぶやくように弾いていたテイク、位しか知らなくて、総じて言えるのは“とてもクラシック的な曲でコンボには向かない。”という印象だった。しかしモトオカさんが主にガレスピー本人が吹き込んだ様々なコンボでの“Con Alma”を聴かせてくれたのだが、凄くアリだった。ガレスピーのラッパってあんなに鳴るんだ!と無知をさらけ出すようだが思った。あと試しに二人で一緒に弾いてみたんだけど、意外にやりやすい曲で、意外にスラスラ弾きやすい。モトオカさんも“そうなんですよ、意外に流れるんですよ。”と。コード譜はエグイけど、よく見ると極めてダイアトニック的な流れで、実はそんなにエグくない。ガレスピーのコンボでのベーシストはそれでも愚直にクラシカルな下降ラインを毎コーラス弾いていたけど。あのボトムのスムースな下降はやはり守っていかないとな。
“Dusk In Saudi”は憧れの曲。しかしとても不思議な曲で、私も、モトオカさんまでも“音採れるかわからない。”というある種のチャレンジ。“あれ、確かチック・コリアもやってましたよ。“Remembering Bud Powell”で(私)”、“え、そうなの?(モトオカ)”、“まあぶっちゃけオレあのアルバムあんま好きじゃなくて殆ど聴いてないっすけど。(私)”、“オレもそうなんだ。1度聴いたきり聴いてない。(モトオカ)”。ふむふむ。やはりそういうものか。まあチックをいじめるのはともかく、あの曲が弾けたらどんなだろう。憧れます。
まあどちらも素晴らしい曲だけど、相当頑張らないと。

ちょっとした事故はレッスンが一通り終わったあと、何となくゴンサロ・ルバルカバのソロ・ピアノの録音を聴かせたくてかけてもらったんだ。
モトオカさんショック受けてた。“キース・ジャレットとかよりうまいんじゃないの、よくわからないけど。”と。私はこのブログでもハンコックやチックが束になってもゴンサロには適わない、と書いたしそうモトオカさんにも言ったけれど、キースときたか。まあ少なくともピアニストから見るとそれ位のことは思わせるのだろうな。
他にゴンサロの年齢、どうやって私がゴンサロの来日を知ったのか、パーカッションはやるのか、などをモトオカさんは訊いた。パーカッションについてはゴンサロはパーカッショニストとしてキューバNO.1に賞されたことがあることを言うと、“キューバでNO.1?”と呆然としていた。“英才教育を受けたんだろうなあ・・・”というモトオカさんに“ライヴで見る限り非常に基礎に忠実で、「軽く卵を握るような」手の形が崩れず、手首の高さが基本的に殆ど変わらない。腕を使うのも一曲の中で3,4回あるか、というくらい。”と素直に伝えた。
ゴンサロ・ショックで呆然自失としながら、「(笑)こういう人もいるけれど、・・・俺たちはバド・パウエルとかやってこうよ。」と呟いた。
こういうことは音楽を続けている人にはついてまわる。
音楽は自分をうまく投影できれば、コレがオレだな、と思えれば、あるいはもっと平たく言ってしまえば、歌えれば、それこそが最高の楽しみであり、喜びだ。その一方でどうしようもないほどに、優劣、というものが明らかになってしまうものでもある。私のようなハンパモノのピアニストはいくらでも開き直れるけど、モトオカさんのようなレベルまでいった人、職業ミュージシャンの人たちは、この上には上がどんどんいる、でてくる現実は時に残酷なことだろう。この葛藤は私を含め、私の周りの友人、先輩たちを長く苦しめ、がんじがらめにしてきた。そこには残念ながら沢山の悲劇も生まれてしまったし、今でも私たちはどこかで葛藤しながら、でもどこかで迷っている。音楽を始めてしまうのは、少なくともまともに音楽に真正面から真面目に向き合うと、それなりの燃料が必要なことだ。私にもそういう要素があることを知っているモトオカさんはだから私に散々、“無理はダメ。”、あるいは“自分とバド・パウエルを比べる、あるいはオスカー・ピーターソンと比べるとか、そういうのはダメ。”、と言ったり、あるいは最初に激しく葛藤した12年前、“確かに音楽には不思議なところもありますが自分は1,2,3,4と数えることだと思います。”と手紙をくれたりした。
こういうことはおそらくザラだったであろうモトオカさんは自分のピアニスト人生を“敗戦続き”と言っているが、こんな風にゴンサロの聴く人によっては絶望すら与えるであろう技量の前にショックを受けるのもザラなら、葛藤の中で悲しい思いをすることもザラだったと思う。そこにある強烈な音楽。
私はモトオカさんのことを尊敬してるし、というかメントールのようなもので私のピアニストのあり様にとって水先案内人のようでもある。それはピアノを続ける私に安心も与えてくれている。

このことは語り尽くせないのだけれど、一つ言えるのは私はモトオカさんの接するように音楽に接し、モトオカさんからこのことで今まで言われてきたことを大切にして、楽しくピアノが続けたい、と思う。これが私の現状。
もう一つ言えば、このことをわからないでただ茶化したり、受け止めもしないで勝手なことを無責任に言ったり、そういう門外漢のことを私は認めないだろう。偏屈かと思われるかもしれないが、仕方ないのだ。まだそこまでオトナになりきれるものでもないし。
ま、微妙だけどね。ただ私の周りの音楽を続けているごくごくわずかな友人たちも、あるいはモトオカさんやそのまわりにいつもいる素晴らしい共演者たちも、みなモトオカさんがそうしているように、これからもずっとそのつながりを大事にしていきたいと思います。そして音楽が私たちに無条件で与えてくれる気持ち良さを大切にしていきたいと思います。
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by kento_ogiwara | 2010-09-13 22:55 | BLOG;音楽について | Comments(0)

雑記;主に構音障害について

この週末、バカみたいに酒を飲み、バカみたいにバンド練をし、もう一度バカみたいに酒を飲み、しかし飲み足らずに阿佐ヶ谷マンハッタンまで行き、バカみたいなセッションをし、バカみたいにイカを食い、バカみたいに消耗して朝帰ってきたりした。

ホント、人と演奏するって楽しいけど大変なこと、凄いこと。
3時間エリントンやバド・パウエルを合奏し、さらに酒の入った体で見知らぬ人との見知らぬ曲のセッションを4曲するというのは全くもっていかがなものだろうか。
例によって振れ幅の激しいオギワラくんは今日は音楽のことなんて考えたくもない。
反作用で仕事のこと。

もう1ヶ月近く前だけど、時々ウチの職場に来て色々レクチャーしてくれる学者がまた来て、高次脳機能障害について話してくれたんだった。向学心を普段持たないオギワラくんはこういう機会がないと何も考えない。だからこういう機会は考える切っ掛けとして大切にしよう、・・・と思って書きます。

レクチャーが始まる前に、前回受けた高次脳機能障害のレクチャーの後で感じた疑問について個人的に質問させていただいた。前回のレクチャーで私は、
“先生のお話を伺っていると、私の知っている殆どのケースが高次脳機能障害で説明されうるような気がしました。逆に高次脳機能障害ではない知的な障害にはどういったものがあるのですか?”
と訊いた。愉快そうに笑いながら私の質問を聴いていた学者は、
“強いて言えば環境的なものが当たるだろう。”
と答えていた。
高次脳機能障害とは平たく言えば、失語、失認、失行など人間の日常生活の中で我々が使っているあらゆる高次な機能・行動が障害されていて、かつその起源が脳に起因するもの。もっと平たく言ってしまえば、知的な障害の中で、病理的な原因が脳にあるもの、である。
で、今回の私の質問はその続き、すなわち、
“(かくかくしかじかであの時先生はああおっしゃっていたが)でもやっぱり病理的な理由がわかってない知的障害もあると思ったんです。例えば自閉症は病理的にわかっていないけれど、明らかに環境的なものは左右してないですよね?”
“してないね。確かにわかっていない。でも明らかに環境的なものではない。だから私は今日はわかってることについてだけ話そうと思っている。そうすればわかってないことについては、わかってない、と言うことができる。”
と明快な答え。プラス、環境的なものがもたらす知的な障害として情緒障害を話に出していた。虐待などで生じることのある障害。明らかに脳機能障害とは違う。学者の懇切丁寧な、そしてわかりやすい回答。

今回のレクチャー後の質問はこれ。
“失語の中での運動性失語=ブローカ失語(聞くことを理解することはできるが、話す=言葉をつかって表出することはできない)のところで聞きたいんです。
たとえば自分で声を出して発語することができなくても、たとえば文字盤をつかって、話す(=言葉・音をつなげて意味を成す)ことができる人は当然失語、もっと言えば構音障害ではないということになりますか?”
答えは、〇。肉体的に音を作る、声を出すことができなくても、文字盤とひらがなで言葉を話せる人ということは、少なくとも頭の中ではその音、ひらがなが鳴っている、ということだもんね。
私は、構音障害、という言葉に引っ掛かっていたんだ。実はずっと。もっといえば構音障害という言葉を使う場合と失語症という言葉を使う場合はどういったものなのか。もちろん構音障害、といえば漢字の意味的にも単に、(肉体的な理由で)音が作れない、というイメージを与える。しかし今までの勉強、あるいはこの日のレクチャーでも、高次脳機能障害の運動性失語の中で構音障害という言葉が説明されていた。で上の文字盤をつかった運動性言語を引き合いに出しての質問になったわけだ。
そして文字盤を使って話せる人が構音障害ではない、ということは、もし構音障害ならば文字盤があってもそれを使うことはできない、ということになる。すなわち、運動性失語=ブローカ失語だ。
これがこのレクチャーでの収穫。
ホントは構音障害と文字盤と失語をめぐるこの疑問のホントの理由は別にあってそれは極めて個人的で、今までの私の現場体験から放置しておくことができなかった、気になっていたことなのだけれど詳細は守秘義務に照らして伏せたままにしておきます。
それにしても文字盤については先生はもの凄く引っ掛かってたなあ。高齢者において文字盤を使うのは自尊心の観点からも考慮が必要なこと。恐らく私の知っているケースはリハビリの途上としてのものではないか、と訊いてきたり、ALSにおける眼球を使った電子文字盤について紹介してもらったり、文字盤というのは一つの大きなテーマをあらゆる側面からもってそうだった。

因みに話のオチとしては、それでもやっぱりその後も色々な所で構音障害という言葉がブローカ失語とは違った意味で使われる場面に何度も出くわし、さっきウェブ上で構音障害という言葉についてちょっと調べたのだけれど、やはり色々な意味があるようだ。すなわち肉体的に音を作ることのできないもの、先天的なもの、脳血管障害などで後天的に発生したものなど。その中でもさらに知的障害を含むもの含まないものでもその状態像は変わってくるであろうし、結局、わからない、が今回の結論です。
ただ一方でこの部分は私も来年1月受ける介護福祉士の国家試験でも頻出とのこと、勉強しておくようにも言われたが、こうも人によって言うことが違うと勉強したくてもしにくい、というものだ。まあぶっちゃけた話、国家試験の試験委員が考える構音障害はどうでもいいから、本当に、そうだ、と認識しておくべき構音障害の理解の仕方に辿り着ければなんでもいいのだけれど。


閑話休題、

個にして全、全にして個、
って誰の言葉だっけ?まあどうであれ、こういう魅力的な言葉が好きなのですが。
私もこういういくつかのパラドックス(←ってゆーの?)をやってみた。
私の父親も姉も出版に関わっていて記事も書く。父親からかつて言われたのは、父親も姉も人々に伝わる、わかりやすい、5W1Hをはっきりさせたような文章で食っていっていると。
そんな中私の文章はまるで金にならないな。
こないだ寝る前、5W1Hの自分の好ましい回答を考えてたら楽しくなって、色々浮かんだ。上に書いたようなパラドックスもたくさん溢れんばかりに出てきた。もうだいぶたってしまったので何を思い浮かんだか残念ながらほとんど忘れてしまったのだけれど、思いだせる限りで私の答えを書くのなら。

WHERE?
somewhere, anywhere, nowhere, everywhere, there, etc.
WHEN?
ever, never, always, forever, etc.
HOW?
somehow, so, etc.
WHO?
anyone, someone, no-one, everyone, etc.

などなど。
まあナンセンス、つまらない、英語が間違っているなど、どう思われてもかまわないのだけれど子文字で書いた答えの部分は私の好きな感覚だ。そしてこのような心持ちで現場でも過ごしている。

WHAT?
がなかったですね。
そこからパラドックスを思い出していって書いてみます。

私は受け容れる、私は受け容れない、
私は聴く、私は聴かない、
私は動じない、私は動じる、
何でもなくて大変なこと、
私はいる、私はいない、
おこり得ないことがおこり、おこり得ることがおきない、
全てのことに理由があり、全てのことは理由などない、
全てのことに意味がある、全てのことは何も意味していない、
私は感じている、私は何も感じていない、
etc.

うーむ。こないだ寝るときは溢れんばかりに出てきたけどやっぱダメだ。忘れた。どれも現場のこと考えてたら出てきた。でもこういうパラドックスで言っておきたいのは、二つの逆説はどちらも同時に真実で、そうやって私も現場で過ごしている、ということ。これは説明として必要かな。凄く浮遊しているようで凄くリアリティもある(←これも逆説だね)。でも実際私はそうやってあそこで働いている。

では徹夜のセッション明けであまり寝ていないので今日は朝までぐっすり眠るとします。
おやすみなさい。
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by kento_ogiwara | 2010-09-05 21:38 | BLOG;社会福祉士として | Comments(0)