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つぶやき

先週末、職場の利用者を連れての宿泊旅行。
セイウチを連れて帰った去年の千葉県の海沿いに続き、今年は群馬の山の方。サファリ・パークに行ってトラを連れて帰った。寅年だし。
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今年は(も?)ハードワークだった。
ヘンな、というかいやな疲れ方をしてしまった。

前に書いた記事で、最近、思考停止気味で働いてる、というようなことを書いた覚えがあるけど、思考停止気味でよくないなあ、とは思ってたけれど、実は言葉にし辛いことだけど、やっぱり続けている分、身についていることが自然とあるんだなあ、と思った。

何せ毎日の職場での生活の中で、言語はもちろんケース・バイ・ケースで有用だったり、重要だったりするけれど、やはりノンヴァーバル(非言語)の世界で過ごしている方が、多い、ような。少なくとも非言語的コミュニケーションの方が断然多い、ような気がする。言語コミュニケーションでも、使うとしたら、短く、分かりやすいセンテンスで、というのは確かだ。
んでそういうノンヴァーバルな認知空間にいることに、私は完全に慣れてきているし、ノンヴァーバルな空間におけるコミュニケーションの手段も自然と体得できている、のだと思う。少なくとも、知的障害者である利用者が言葉を使わないことに苛立ちを覚えることも、違和感を持つことも、ストレスを感じることもない。

むしろ他の優秀な先輩職員たちのように、私も、職場でどこかから健常者特有の長いセンテンスの、言語による、よって限定的で解釈的で、時にはその人個人の人生観や価値観、といった、本当にどうでもいいゴミにもならないような文章が聞こえてくると、うるさくて仕方がない。
言語は限定的だと書いたが本当にそうなのだ。ある言語を別の言語で解釈すること(典型的な例が辞書)、言語になっていない事象に言語を与えて解釈すること、こういった言語が聞こえてくると、うるさくて仕方がない。言語になっていない事象に対して言語を使わないで応じることだってできるのだ。正直、職場でなく日常生活でもこの手の言語を聞くと不愉快な思いにとらわれることが多い。

こういう感じ方、捉え方は、それまでの私の人生の中で培われてきた、そして体得し、経験もしたもの、及びそこから生まれた哲学(及ばずながら例えばこの文章のような。)と、すこぶる相性が良い。だからこの職場は本当に私にとって天職のようにも思える。
といういわば私の人生観、価値観、哲学、どう呼んでも構わないが、これは私が体の中にあって職場にも持って行っているものだが、これは上に書いたような言語と違って、職場の中でうるさくなるものではない(であることを願うばかりだが。)。一つにうるさい人のうるさい言語と違って、まず私はその人生観、価値観、哲学を職場では言語化しないし、利用者に聞いてもらおうとも思ってないし、利用者に何かを伝えようとも思っていないし、むしろできるだけ自分の存在を消せれば、と思っているからだ。自分の存在は常に利用者にとってニュートラルであって、そして例えば自分のことを、利用者があの空間及び生きている社会の中で、本人も知らないうちにそれによって助けられ敷居をまたげているような追い風のようなものであって欲しい、と願っている。そこには私の人生観や価値観、哲学などは必要でなく、言語化して表象することもなく、それは目に見えない助けのような、追い風のようなものであって、それ以上のものでもなく、それ以下のものでもない。

よってそういう職場で私が知らないうちに培って体得してきた方法論で利用者のために動くことができるのなら、この仕事は誰でもできるし、逆に言えばそんなに優れた人、どんなに頭がいい人だろうが誰でもできるわけではない。極めて専門性の高い特別職だと思う。

言語を信奉する人にとっては挑発的な文章になってしまったが、私も何も言語の全てを否定するものではないし、例えば芸術のフィールドで(ゴメンね(涙)・・・)音楽とよく似たように言語があらゆる連鎖反応からそれが「芸術」と呼べるものに、あるいは「作品」と言えるものに昇華されていくのを見てきたし、あるいは人の精神とより近いところで言語それ自体の力で(音楽と同じように)人が、高みに(ゴメンね)のぼるのを見てきた。良くも悪くもその力は強大だ。
ただ私はそういうのではなく、辞書のような、言葉を言葉で置き換える、解釈する、そして何より私が嫌いな、定義、をするタイプの言語が嫌いなだけだ。それと、これは誰もが感じることだろうけれど、言語を与えられる前のあの言語にできない沢山の愛しいもの達に、言語を与えてしまうことがどうしようもなく野暮に思えて仕方がないのだ。それこそ私の職場、知的障害者たちの世界は、言葉になる以前の愛しいもの達でいっぱいだ。あるいはそれがあるからこの仕事が楽しいと心から思える。それをすでに存在自体が限定的な言語というものに置き換えてしまうことに途方もない野暮さを感じる。言葉にできない素敵なものたちをつまらない言語というものでつまらないものに変えてしまうことに途方もない抵抗がある。
言葉にならない愛しいものたちは言葉にしなくてもいい。私たち職員には言葉にならない愛しいもの達を言葉にしないまま感じて応えていく技術が備わっている。それは体得されるもので、理解するものではない。

私が長いことこのことについて書けなかったのは、そしてあまつさえ自分は思考停止に陥っていて、何も学んでいない、何も知らない、と思っていたのは、こういう風に私が知らないうちに時間をかけて学んでいたものがこのように言葉にし辛いものだったからだと思う。
実際、今回の宿泊旅行で、久しぶりに、うるさい言語、をたくさん聞いたことで、ある意味久しぶりに自分が相対化されて、言語のもととなる部分(今回はイライラだったけどね)が騒いでくれたから、久しぶりにこの知と無知の彼岸にあるようなことについてやっとこさ、つぶやくようにして言語化できたのだと思う。
これが私の実践の結果の一つ。そしてこうして記事に書けたのはいやな疲れ方をした宿泊の仕事のご褒美だろう。少しはこれでざわめきがおさまって、また心静かに、無口に仕事に精を出すことができるといいと思う。
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by kento_ogiwara | 2010-06-14 00:29 | BLOG;社会福祉士として | Comments(2)