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いとーさん

日曜日、池袋インディペンデンスにて、共演者、尊敬するテナーサックス奏者、友人であるいとーさんのライヴを観賞。お題目はカート・ローゼンウィンケルやマーク・ターナーといったコンテンポラリー・ジャズのオンパレードでバカウマ。

オギ「カート・ローゼンウィンケルってたぶんもともとロック好きでしょう?」
いと「そうですね。ライヴやったあとロックのライヴをやったみたいな気分になりますよ。」

今度の大学の学園祭にピアノ・ソロで出る、という話になって
オギ「いやー最近はそんなこんなでモトオカさんとこでソロ・ピアノのレッスンだし人前でやってみるんすけど、(部員も多くてバンドもいっぱい、時間足らなめの現役生の学祭にあってOBの私がそれも一人で時間をとるのはいかがなもの?、という意味で)、部長さんとか現役生にヒンシュクかな、とか思って…」
いと「いやー。そりゃそうでしょ。ソロ・ピアノなんかできるのか、って話ですよね。」
オギ「いや、彼らがそうとってくれてればいいですけど、時間とってOBが一人で、どうなの?って。いやソロ・ピアノならやってこましますよ。ハラくくってますから。魅惑のバップ・ピアノを弾いてこましますよ。」

オギ「いやー、しかしそんなこんなで今日みたいなライヴみてると自分、何やってるんだろう、とか思いますよ。(こちとら)相変わらずのスタンダード、それもFとかB♭とかE♭とか。」
いと「おわー、超ストイックだ!」
オギ「でしょ?ストイックすよね。でも今までそういうのやってモノにならないうちに♯系とかに逃げちゃったから案外弾けないんすよね。」
いと「わかる。オレもFとかセッションで出されるとショージキ困りますもん。」

ストイックさ。
この業から私はいつ解き放たれるのだろう。
せめていとーさんがこんな風に分かってくれるから救われる。
「淋しくなったら言ってくださいね。」
いとーさんは言う。いとーさんはわかってくれてる。

学生時代のジャズ仲間が絶滅危惧種になってしまった今、いとーさんは同じ土俵でものを考え、感じ、そしてオギワラくんのピアニストとしてのメンタリティをわかってくれる唯一の同世代のミュージシャン仲間だ。そういうミュージシャンを友人に持ったことを幸運に思う。

オギ「最近よく人が死んでね。」
いと「ああ、わかりますよ。最近まで友達の結婚式とかばっかり行ってたのに最近は葬式ばっか。」
など、ユーモアたっぷりに日常生活での悲哀も分かち合ってくれる。
それでも最近哀しいことが多過ぎて、いくらレッスン通りのソロ・ピアノ練習をしてるからって、それこそストイック過ぎて逆に壊れてしまいそうな私の気持ち。それをそんな風に説明しなくてもわかってしまういとーさんだから(だってたぶん彼も同じだから。)、友人、という関係以上にすごく感じて心配してくれる。わかってくれる。
今ではそんな、貴重なミュージシャン友達。

オギ「もうねえ、(ソロ・ピアノは他の楽器に比べて営業の機会も多いから)なんとかシュウカツだと思って練習して、半年…、いや、3年だな。だって色んな曲をその場で練習したことを演奏に反映させなくちゃ意味ないし。まあ、…やりますよ。」
いと「その頃にはオレもエリック・アレキサンダーとか聴いてバップできるようにしときますよ(笑)。」

エリック・アレキサンダーみたいでなくてもいいけど、いつか…。

オギ「こないだの(オギワラくんの)2枚組アルバムはビョーテキでしたね。」
いと「ああ、アレはビョーテキでした。」
オギ「そう。それでアレは収まったんすよ。今は何も浮かばない。でもモトオカ師匠もそういう時期があったらしいっすよ。やっぱり同じ30前半頃に。やっぱ(作曲。つまり新しい曲が思い付くのに)アタマ乗っ取られちゃったみたいで…」
いと「へえ。」
オギ「で、こないだレッスンの時、やっぱモトオカさんに、もうしばらく作曲(アルバム作り)は止めておいた方がいい。しばらくはピアノでも弾いて休んでな、って言われました。まあけっこう今は練習に熱中し過ぎて、うまくいかないとピアノの蓋に頭突きしたりしてますけどね。」
いと「やっぱビョーテキだ(笑)。」
オギ「マジっすか、いとーさん。オレはビョーテキから逃げられないんすか?でも何度も同じところがうまくいかなくて何度やってもできないとムカつくじゃないっすか?」
いと「んー、オレの場合は声出します。叫びます。」

なんだよ、あんただってビョーテキじゃないか、いとーさん。

こんな風に、心許した、同じ土俵のミュージシャン・トークができる唯一の同世代、友人であるいとーさん。
ホントに淋しい時が来るときは、電話します!!!

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カート・ローゼンウィンケルやマーク・ターナーを吹き倒すいとーさんの雄姿@池袋インディペンデンス
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by kento_ogiwara | 2009-10-27 21:30 | BLOG;音楽について | Comments(0)

ピアノにハマった

夏から始めたモトオカ師匠とのレッスンが充実していることは前にも書きましたが、どんどん楽しくなってきています。

最近、色々思うことがあって、ジャズをやっていて幸せになれますか?ということをモトオカ師匠に訊いてみよう、と思っていた今日この頃でしたが、先週土曜にレッスンに行って、リラックスした中にも楽しさ満載で、とにかく弾く、という前提があったのでそんなことは聞かず仕舞いでした。
だってモトオカ師匠、ライヴの時とかはよくニット帽を被っていて、家では被ってるの見たことないのに、今回のレッスンではのっけから勝負ルックのニット帽を被っていてやる気バリバリなんだもん。

レッスン自体も要求が高くて、次から次へと、あれは出来るようになりましたか?これはどこまでやったの?と矢継ぎ早に訊いてきて、レッスンが終わるときも、
「ちゃんとやってね。」
と言われてしまった。
いや、モトオカさん、こっちも仕事あるし忙しいし、なんてこと言おうものなら、じゃあもう来なくていいよ、といわれそうな位。
確かに音楽の場に音楽のこと以外を持ち出すのは野暮以外の何物でもないのはよく、誰よりもこのオギワラくんがわかっている。高校の頃、バンドをやってた時に、バイトが忙しくて、とか言ってたらメンバーのヤマザキくんに、そんなことは訊いてない、俺たち好きでやってるんだからそんなことを持ち出して欲しくない、と言われ、至極納得してから、このヤマザキくんの考えはオギワラくんの考えになった。
仕事が忙しいから、などと言うなら最初からやらなければいいのだ。好きでやってるのにそこに仕事とかを持ち出すのはなんか筋が違う。
ジャズ・ピアノのレッスンに来ているのだからそこではジャズ・ピアノの話をしよう。

現在、
ミディアム・スウィングで“I Should Care”をアドリブも含んで仕上げること
“polka dots and moonbeams”のテーマのサウンド作りとそこからテンポ・インしてアドリブも入れて曲を仕上げることが絶対宿題で、

まだマスターしていないキーであるD♭、B、Eの時の6thのドロップ2をマスターすることも絶対宿題。
なりゆきによっては“in a sentimental mood”をテーマを作ってやはりテンポ・インして左手コンプなどでアドリブも入れて曲にしてくること
“just friends”をミディアム・スウィングで弾いてくること
ももし可能なら、という流れだ。
前回のレッスンでミディアム・ファーストで弾いた“all the things you are”ももっと安定感を出して弾いてみせたい。

そして全てはイン・テンポで弾くこと=必ずいつでもメトロノームを2拍目と4拍目に鳴らしてピアノを弾くこと、これが絶対、になった。さらばルバート。こんにちはメトロノーム、now and forever…。

メトロノームを使って“I Should Care”を弾くのは凄く楽しくて、一日に10回位弾いて練習してしまう。たぶん、色々な変化がこれから起こると思うけど、その最大の変化がこのメトロノーム練だろう、間違いなく。時間の横線の中に音を形良く置いていくのがひたすら楽しい。特には1本で、時には高層ビル群のようにぶ厚く、自由な高さで。これだよこれ、という音の形作りの楽しさ。やはりそこにはメトロノームが絶対必要だ。ありがとう、メトロノーム。

サウンド作りも充実している。
ソロ・ピアノに於いて、6thのドロップ2、アッパーストラクチャー・トライアド、代理コードが柱に成り得る、というモトオカ師匠の指導の下、作っているが、とにかく凄い。めくりめく迷宮に潜り込んでしまったかのように無限に音世界が広がっている。必然的に、そしてそれより多分多くの偶然によって。
モトオカさんが弾いた最初の“in a sentimental mood~♪”を全て代理コードで弾くやり方はまるでビル・エバンスのようだったし、“just friends”で提案してくれたアッパー・ストラクチャー・トライアドはまるでウィントン・マルサリスとやっている時のマーカス・ロバーツのようだった。
アッパー・ストラクチャーの作り方に関しては次回整理してくれる、とのことなので楽しみだ。
これだけの多様さかがサウンドに出てくると、何をやっても美しく響くようになり、例えば今音作りをしている“polka dots and moonbeams”は、ダイアトニック・コードでのナチュラルな変化がとても美しく響いている。音譜にした場合、臨時記号が付かないこれらの音使いが、何か特別なことをしたかのように特別な美しさで響く。あとクリシェ。半音ずつ上ったり下りたりして(もちろんそこには一つ一つの音に和声を伴ないながら)何かに解決する、というよく馬鹿にされるこの技法の何と無条件に効果的なこと!
こういったことを全てを踏まえて統合して、その場にふさわしい音作りができれば、というのが究極的な目標となろう。ドロップ2だけでもダメだし、アッパー・ストラクチャーや代理コードだけでも少なくともこのままでは今までのオギワラくんの貧困さから大して逃れられない(もちろん極めれば別の話だが)。ダイアトニックだけではジャズにならないし、クリシェだけも今までのオギワラくんの発想からさらにガラッと別物のように発展させるのは難しい。
要するにどれか一つではダメ、ということ。あらゆるものを自発的に演奏の中に取り入れられるようになること、それが目標だ。

今でも可能な限り夜遅くまで、時には時を忘れて練習しているが、まだまだ足りない。もっと練習時間が欲しい!!!とにかく色々やりたいことが多過ぎて時間が足りない。“just friends”のマーカス・ロバーツみたいなアッパー・ストラクチャー入れてテーマ作ってそのままイン・テンポでアドリブの練習したい!!!

まあ最低限“I Should Care”はだいぶめどが立ってきたとして、“polka dots and moonbeams”をバラードのままイン・テンポでアドリブも入れて、というのは練習しないと身にならない。絶対に。のでここは辛抱強く練習だ。ここが一番難しい。どーんどーんどーんしゅくとぅぱくとぅ、と感じながら3連を意識して弾かなければ。1拍の中でバウンスするか、3つ弾くかのどちらか。
イーブンは当分お預けだ。

ああ、“in a sentimental mood”ももう少し音作りして、イン・テンポでアドリブも入れて練習したい!!!“all the things you are”もメトロノームに合わせて弾きまくりたい!!!“all the thing you are”は別口で全く自前のアイデアでマイナー7thはマイナー・メイジャー7thで、メイジャー7thはオーギュメント・メイジャー7thで弾く独自のアイデアで。
もちろん6thのドロップ2は全てのキーを毎日練習しなければいけない!!!
とにかく時間が足りない!!
もっといっぱい練習したい!!!!!
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by kento_ogiwara | 2009-10-21 22:28 | BLOG;音楽について | Comments(0)

ソーシャル・インテグレーション~対象論を超えて

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先日訪れたバンコクは猛烈な開発ラッシュ。
1ブロック歩くと3割がたはこのような工事中の現場に出くわす。
この国では土建屋は大層なバブルだろうな…、などと思いながら漠然と福祉のことについて考えた。
東京でのこれからの生活のこと、家族のこと、もちろん仕事のことも。
わざわざ休暇とってバンコクくんだりまで行ってなにつまらないこと考えてるんだろう、ってな感じもしますが、一応思ったことをノートに書き留めてあったのでここで整理して記録しておこうと思います。

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私のウチはカミサンと二人暮らし。子供はまだいない。
皆さんご存知の通り現政権の政策として子供手当てが創設され、子供のいる世帯に一律で手当てが支給される。保育所問題などで生活維持の厳しい子供のいる世帯にとっては朗報だろう。
一方でウチはカミサンが今年ぎっくり腰をしてしまい、私が晩飯を作っても、お茶碗が持てず、座ることができず、軽い食器に移し変えて立って食べてもらうような状況が続き、労働からはしばらく遠ざかってもらって、腰の回復に専念してもらいたい、と思っていたので、来年は配偶者控除を使おうと思っていた矢先、子供手当ての財源の一つとして配偶者控除が廃止されるとのこと、全くもってタイムリーなことだ。

子供のいる夫婦と子供のいない夫婦ではっきり明暗が分かれたものだ。少なくとも政策的には。もっとも政策の意図するような結果が、各世帯で実感として現れるか、実効力があるかはまた別の問題だろうが。
ともかく子供のいない夫婦で私と同じくワーキング・プアやっているもう決して若くはないといえる同僚などは肩を落としている。社会保障重視の現政権に交代したと思ったら、思わぬ形で家計をダイレクトに圧迫された感じだ。

今まで自分は生存絶対肯定の哲学のもと、他を蹴落としても自分が生きていかなければならない、と思っていた。公務員は公務員の利益を、土建屋は土建屋の利益を、介護職は介護職の利益を、それぞれが当事者として自分の利益を追求して、生き残っていく、世界とはそういうものだ、と思っていたし、そういう世界観はいたって健全なものだとも思っていた。もとい、今も思っている。

でも少なくとも自分が社会福祉士となったことも一つの切っ掛けとして、少し違うよう思っていることもある。例えば、今回の配偶者控除廃止は痛いけれど(それも夫婦の生き方の一つの選択肢を政治によって消された、という意味で)、しかし、だからと言って、子供のいない夫婦(それもワーキング・プアと怪我人のコンビ)という当事者意識のもと、配偶者控除廃止に対していちいち反対の声をあげるつもりもない。

なぜなら、なんか芸がないな、と思ったのだ。
今回の場合、子供のいるひっ迫した夫婦、と子供のいない夫婦、という二つの対象のなかで、「福祉的」政策が、今回は子供のいるひっ迫した夫婦、が優先されたわけだ。
で、この手の対象論からそろそろ逃れたい、という気持ちが先に立ったのです。
大勢の色々な種類の、個別の苦しんでいる、助けを必要としている集団の中で、どの集団を「福祉的」政策の対象とするのか、優先するのか、みたいな議論に途方もない不毛さを感じたのです。

そろそろこの国でも、「福祉」=「老人ホーム」みたいなステレオタイプは減ってきたのだと想像するし、その証拠の一つとして今回の政権では公約の目玉として子供手当ての創設が挙げられてきた。もちろん障害者自立支援法の廃止、というこれはまた大きな転換が(に成り得るかはまだ謎)、障害者を対象として挙げられているが、目下のところマスコミを中心とした世論の最大の注目は子供手当て、という、つまり児童・子育てを対象としたものに向かっているのは確かだと思う。
この従来の「福祉」=「老人ホーム」みたいなステレオタイプの「福祉」から最近では高齢者はもとより、障害者、児童、公的扶助、ホームレス、在日外国人、難民、ワーキング・プア、雇用問題、ジェンダー、etc.あらゆる集団、あるいは個人が福祉の対象となっている。

そうした時代の中、あらゆるマイノリティを含む包括的社会の中で、ある集団が、「福祉」の恩恵に与れるかどうかで他の集団を攻撃する、って、そんな不毛なことなどあるだろか?
もちろん誰もが何かの当事者であり、その当事者がその当事者としての権利を主張するのは健全だ。当事者の力というのは強大だし、側面から専門家の支援があったとしても当事者の力があれば運動は始まり、ソーシャル・アクションになってやがては社会を動かす力にもなりうる。
ただ、誰もが何かの当事者であるからこそ、自分の属する当事者集団のことだけを考えていて、その当事者集団だけの権利を主張する場合、結局そこには先に挙げた対象論から逃れられていない不毛さが嗅ぎ取れてしまうような気がするのだ。
例えば私がワーキング・プアの知的障害者の介護職である場合、もちろん、知的障害者の介護職の給料をせめて食っていけるくらいまでは上げろ、と訴えることはできるけれど、もしそこで知的障害者の介護職の利益のみを追求して、他の身体障害者、精神障害者、高齢者などの介護職を除外したり、他の労働者の生活権、生存権を侵害しうるような主張を展開する場合、そこにはやはり先に挙げた対象論から逃げ切れていない、ということになろう。

まるで利他的、自己犠牲的、といった福祉にあってはならない概念の臭いが嗅ぎ取れる、と言われてしまいそうだけれど、福祉とは、本来、対象論を超えて、対象を選別せず、一般的に追求されるべきものだ。こうした考えを受け、昔からよく言われていた、ソーシャル・インクルージョン、という概念に代わって、ソーシャル・インテグレーションという概念が近年謳われている。社会にインクルード(内に含んでいく)あるいはエクスクルード(排斥する)といった社会と、あらゆるマイノリティである対象集団を、内と外という名のもと二分化するのではなく、あらゆるマイノリティ、従来では福祉の「対象」と見なされるであろう全ての集団たち、あるいはマジョリティ、全てを含んだ包括的社会を目指すのがソーシャル・インテグレーションの考えだ。

先程書いたように、土建屋は土建屋の利益を、介護職は介護職の利益を、それぞれが当事者として自分の利益を追求する。よく政治を、もっとざっくばらんに言ってしまえば選挙を動かすのは、「福祉」と「公共事業」だ、と言われる。もうそろそろこういった考えからも脱却してもいいのではないか、と思っている。福祉が包括的な社会、ソーシャル・インテグレーションを目指す以上、土建屋の利益を守るのも福祉だ。公共事業の実際の内幕はここでは置いておいて、土建屋や開発業者にとって、国がストップをかければ商売上がったりだ。開発に歯止めをかけようとする現政権の評価は別として、その公共事業打ち切りによって、末端の職人たちの生活に影響を及ぼすことは確実だ。
いったい誰に政治のせいだから、といって職人たちに転職を薦める権利が許されようか。

ある意味私も似たようなものだ。やっと自分の天職と思える仕事についたが、そこはメシもロクに食えないような低賃金だった。仕事は充実しているし、辞めたくはない。でも生活は厳然としてひっ迫している。思わず愚痴をこぼせば聞こえてくるのは決まって、
「それは自分で選んだことでしょ?」
自分で確かに選んだことだけれど、…、でも、そんなんでいいのか?
こんなに必要な仕事で、必要とされ、自分を必要としている人たちがこんなにたくさんいるというのに。

だから同じように私には子供を持った夫婦に子供手当てのことで悪態をついたり、もう開発の時代は終わったから、といって私が今の仕事を天職としてやっているように、天職として職人をやってきて、そして今もやっている職人のクビを切ったり、そういうことはできない。もししたとしたらそれはもう目も当てられないくらい不毛なことだ。最初に書いた対象論に不毛さを感じてきた、というのもそういう理由だ。

ソーシャル・インテグレーションとは言っても理念としては素晴らしく魅力的で、またものを考える時の示唆にも富んでいる。
結局財源の話になるのだが。
本来の福祉の姿のように、本来は対象の選別をせず、全ての当事者たちに平等に助けがいくようにするのが理想だ。しかし財源の問題があるから例えば子供手当ての創設と配偶者控除の廃止、という露骨に選別的な配分が行われた。しかし散々ここまで書いてきたように、その路線に乗っかって、対象論のもと火を吹き合うのは一言でいって不毛だ。
その不毛さを打開するためにも、私たちは当事者としてのみ生きるのではなく、他者への共感も大切にし、利己的に自分の生存を追及するのと同時に、他者、社会全体、そして世界全体のことも感じて、みなが飢え死ぬことのない、犠牲者を生まない、みなが心の安定を持って生きることのできる包括的な社会、世界を追及していくことが、私たちの福祉がどれだけ成熟したか、あるいは一社会福祉士として私が成熟しているのか、に繋がっていくように思われる。


あまりにも夢物語のようだ、と思われたかも知れないので補足。

まず政治に関してですが、簡単に財源不足で子供手当ての創設のために配偶者控除廃止、と書いたけれど、まず、財源不足、という言葉を簡単に使わないようにしたい。
政権交代以前から、私たちは少子・高齢化の単純で明快な原理から税収が減るのは明らかなので増税は仕方がない、と言っていた。
財源がないから増税、とはいうけれども、今回の天下り全廃を掲げる政権交代する前夜、駆け込みで関連する団体に天下った高級官僚が何人かいたけれど、ツメの垢をともすような生活をしながら「増税は仕方がない。」なんて言っていたころ、そうやって世界に悪名高い高級官僚の天下りたちが平気で税金で過ごしていたのだ。
まずそういう完全な無駄をなくしきるまで、「増税は仕方ない。」の言葉はとっておいたほうがいい。有権者として、納税者として。
私たち国民は意識して、このような無駄を許さないように見ていないと。
その点現政権の「財源についてはまず徹底的に無駄を省くことから。」というスタンスは評価している。残念ながら福祉業界は天下りの温床だが、このように日本中に散らばる社会福祉協議会や社会福祉法人などには必ず自治体から天下ってきた元役人がいるが、彼らを一掃できたら一体どれだけ本来の仕事である現場の利用者へのサービスが向上することだろう。職員の数を多くして手厚く介護することも、あるいは介護職の給料を上げて離職率を下げ、結果サービスの質の向上を目指すことも、あらゆることへの可能性が開ける。

また財源がなくても選別的にならないように、と書いたけれど、事実上それは難しい。
とにかくどこかで選別的にならなければならない場合、選別の原理は語り尽くされている。
それはナショナル・ミニマム(最低限度の生活を国家が保障すること)、とも言われ、一にまずは生存を保障することが最も優先されるべきことだろう。
生存の肯定、これは下記日本国憲法25条を見るまでもなく、人間としての最低限のそしておそらく唯一の一般的モラルだ。

日本国憲法

第二十五条【生存権、国の生存権保障義務】
1 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

その他、何が優先されうるかはこれ以上ここで書ききることはできないし、議論されてされつくされることはないので省略。

ちょっとまとまりのない文章になってしまいましたがこの辺で。
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by kento_ogiwara | 2009-10-12 21:23 | BLOG;社会福祉士として | Comments(11)

嵐の夜に

2,30分前に雨がザーッと降り始め、その音で目が覚めた。
凄いぞ、コレは。
先日のバンコクのスコールには負けるがなかなかコレも凄い。
夜なので、吉本ばななの“哀しい予感”の中の一説、
「今夜は窓のところにふとんを並べて、一緒に嵐を見ようね。」
を思い出した。しかしこんな嵐の時に窓辺に近づいて見よう、なんてやはりその台詞を言った準ヒロインは、やはりエキセントリックな人だな、と思う。
前作“Road Music”収録の“なかったことにしてしまいましょう”もこの準ヒロインの台詞。
この本はやっぱりこんな風に鮮烈なイメージと言う点では吉本ばなな作品の中でも特に鋭角的なのかな。内容は忘れてしまったが。
“TSUGUMI”はイメージも鮮烈だし内容も全部覚えている。あの本でも強烈なのは準主役であるつぐみで、主人公とは別になにか強烈なヒロインを置いて描くのが彼女の常套手段なのかな、と思ったり。まああと“TSUGUMI”は訴えてかけているものが明確だから共感しやすいし、今でもフェイヴァリットの本なのだろう。
その点“哀しい予感”はこういう風に随所随所で強烈なイメージを持ったフレーズを断片的に覚えているけれど、ストーリーや共感するような思想性みたいなものは覚えていない。とにかく強烈なイメージを持っている、と言う点では吉本ばなな作品の中でも傑出してる感じ。
ついでに言うと全く関係ないけれど最新作“kento ogiwara and friends”では“嵐のあとに”という曲を書いて収録してマス。嵐の夜をこの曲も描いているけれど、こう実際嵐の夜に思い出してみると、随分悠長な作品だな。

ではつれづれなることでしたが皆さん台風気をつけて。
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by kento_ogiwara | 2009-10-08 03:50 | BLOG;その他 | Comments(0)