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“重度”障害者との充実したコミュニケーションのために

実に1年強ぶりの社会福祉士として現場の経験から書く記事になります、
それも1年強前に投稿した記事は、介護福祉士の試験制度を取り巻く状況に対する疑問符的な記事でした。私は今回、職場である知的障害者の支援においての記事を書こうと思います。これは実に1年8ヶ月ぶりのことです。それまで何も考えず、何も感じず、何の気づきもなく仕事をしてきたのか、となると、確かにかなり思考停止気味になっていた面もあります。しかしそれでもあそこで過ごすようになってもうゆうに4年半、だからこそじわじわと蓄積されてきたものがあり、やっと今だからこそ呟くようにそれらについて話すこともできると思います。

先日、職場の研修で、私の勤める法人が運営するもうひとつの施設である重症心身障害者施設の話を聴くことができました。
まず私が日々を共にしている知的障害者と、この重症心身障害者の違いについて説明します。
まず、この重症心身障害者、の重症とは、症状が重い、のではなく、知的障害と肢体不自由の重複のことであり、この症状を重複して持っている、ということから重症心身障害者、と呼ばれています。
ただこの施設では知的障害も重く、例えば摂食動作も難しくミキサー食による全介助が必要だったり、発語の全くない方もいたり、寝たきりの方が多数を占めているそうです。
当然、私の勤める施設とは雰囲気も支援員の動き、あるいは活動のプログラムも変わってきます。私の勤める施設も重度の知的障害者の中で過ごすわけですが、体は元気、もう毎日走り回ったり考えたり、まあ、平たく言うと、サッカーをしているような状態に近いです。オシム元サッカー日本代表監督の言う、考えて走る、にまさに近いのかな。それプラス言語的なあるいは非言語的な(最近思うのですが言語的なと非言語的な、は同じようなものだと思うのですが。だってどちらも言語的でしょう?少なくとも動き、というか。私はこれを行為とよんでいるけど。)コミュニケーション、第六感を含めてフル稼働で働かせて動くわけです。サッカーに似ていませんか?

私の勤め先がどれだけ動きの多い空間か少し伝わってくれれば嬉しいです。
コミュニケーションについても言語的であろうが非言語的であろうが、まあその境目もわからないのですがとにかく全く困りません。利用者たちは社会的に言えば重度知的障害者たちですが、もういい加減、みんなとコミュニケーションに困る、ということは全くありません。むしろ一部の健常者との方がコミュニケーションが難しい、と感じることのほうが多くなってしまいました。
そんな中でも、当然利用者にも個人差はあるので特に、重い、人に対してはコミュニケーションが取れないなあ、という感想があったのです。恥ずかしいことなのですが。そういう人はこういう私に対して怒りの鉄拳でも入れてやればいいのでしょうが、それも重いゆえできない。このことが最後にして究極の引っ掛かりになっていました。

そこに先日の重症心身障害者の支援にあたってきた人の話を聴いて、これは新しい・・・、とても重要な見方だ、と思ったことがありました。曰く、
(その人が)重度だから、といった考えを持ってしまうのはどうか?
ということ。
重度、ということである程度説明をつけてしまって支援者側が考えを固めてしまうことの危険性。
確かに、極端な話、私がかつて1ヶ月で逃げ出した高齢者デイ・サービスがあるのだけれど、そこでは、寝たきりの要介護度の高い利用者を、“寝たきり”で、“預かり”とまで職員が言ってしまっていた。そして実際に職員がその方に関わっていったり、体を動かす介助をしたりするところを見ることはできなかった。重いし、寝たきりで、モノも言わないから、ただ“預かり”をしていた。
こういった露骨な施設もさることながら、私たち支援者はみんなこのことを考えていかなくてはならないのではないだろうか。

お話の中で、そういう“重度”の人でも、こちらからの様々働きかけで、色々な反応、新しい行動、考え、意思表現、その他もろもろを見せて、あるいは支援者側に気づかせてくれるようになり、結果的に、移動を含むその方の行動範囲も広がったそうです。

どんなに“重度”であったり、意思の表出が一見見えにくそうな方でも、要は、こちら支援者側の感受性の高さ、相手の様々な意思や行動や行為を察知して受け取る能力などによって、コミュニケーションの豊かさも変わってくる、ということです。
寝たきり、座ったきりで動かない、口もきかない、文句も言わない、だからってその人が何も感じていなくてただ寝てるだけ、座ってるだけ、というわけではないのだ。
主張がないからコミュニケーションが取れない、のではなく、支援者側にその人の主張を察知する能力が欠けているだけなのだ。逆に支援者側にそのもっと“重度”の人の主張や欲求や様々な行為を察知してそれに応えていく能力があれば、コミュニケーションや双方のインタラクティヴな会話がもっと増える、ということだ。

これは新しい考えに触れた、と思った。
そして自分を省みて、自分も、重い人に対して、コミュニケーションの少なさを感じていた、しかもそれを利用者のせいにしていたことに思い当たった。ただ単に私に“重度”の人とコミュニケーションをとっていく能力や感受性が欠けていただけだったのだ。
さっき1ヶ月で逃げ出した寝たきりでモノを言わない高齢者を文字通り“預って”いただけの施設をコケにしたけど、私も似たようなものだったな、と思う。
支援者側のさらなる成長と能力の向上、感受性の豊かさが双方のコミュニケーションを活発化させ、さらには“重度”の人の活動範囲も広げたケースを聴けたことで、私ももう少し頑張って支援員、臨床家として成長していかないとな、とまだまだある伸びしろを見せてくれたいい研修でした。

同じように知的障害者、重症心身障害者、認知症高齢者、あるいは精神病、といった、健常者とはまた少し違った認知世界を生きる人々の支援に当たっている人で私と同じように悩んでいた人が、この記事を読んで、発見があって、より楽しく支援にあたるためにも、より支援者側が考えて成長していこうと思ってくれたら嬉しいです。私ももう少し頑張ってみようという気になりました。
“重度”の人々との支援関係をより楽しく、コミュニケーション豊かでやりがいのあるものに変えていきましょう。そうすることが自分たちはもちろん、利用者が喜ぶことになるのではないでしょうか。
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by kento_ogiwara | 2012-08-06 00:19 | BLOG;社会福祉士として | Comments(0)
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